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<title>一日一作文章練習</title>
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<description>改め「ほぼ二、三日に一作文章練習」とします</description>
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<title>ココログメンテナンス</title>
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<description>一年間新規記事の投稿が無いと自動的にアカウント削除となるというので、とりあえず実...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;一年間新規記事の投稿が無いと自動的にアカウント削除となるというので、とりあえず実績づくりのために、記事を書いてます。&lt;br /&gt;なんか、お役所仕事みたいですね。&lt;br /&gt;作文練習を休止してから、もうずいぶんになります。いちど中断すると、なかなか長文は書けなくなります。まず第一に言葉がでてこなくなるのを如実に感じます。&lt;br /&gt;頭の回転も悪くなる様です。&lt;br /&gt;仕事で使う脳細胞と、文章を書くために使う脳細胞はずいぶんと違うのではないかと気づきました。&lt;br /&gt;このままではいけません。しばらく様子を見てから、また文章練習を再開したいと考えています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<title>リアリストと創造的な思考</title>
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<description>自分はリアリスト、現実主義者だと思っている。 ある自己啓発セミナーで、こういうゲ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;自分はリアリスト、現実主義者だと思っている。&lt;br /&gt;ある自己啓発セミナーで、こういうゲームがあった。このゲームは、静かな叙情的なバックグラウンドミュージックが流れる、明かりを落とした暗い部屋で行われた。ゲームのルールはこういうものだった。&lt;br /&gt;「あなたは沈みかかっている客船の乗客の一人だが、乗客全員が乗り込むには救命ボートの数が足りない。そこで、全員が集まって救命ボートに乗る人を決める会議を開きました。どの様な選出の仕方をするか意見を述べるか、自分がボートに乗る権利を認めさせるために、どうしても生き残らなければならない理由を説明して説得するか、ひとりでもたくさんの人を助けるために自己犠牲を進める意見を述べるかしてください。全員目を閉じてこの話し合いをします。意見を言う人は手を挙げてください。スタッフが肩に手をかけますから、立ち上がって話してください。そして、その意見に対して賛同したり反対したりする意見を同じように自由に発言してください。やりかたは同じです」&lt;br /&gt;このゲームの意図は、ぎりぎりの選択を迫られた状態での自分の考えを素直に出して、どこまで皆の賛同を得られるかや、人々の葛藤や意見の食い違いのなかから人間性や社会性や理性や感情の意味を感じること、であったらしい。&lt;br /&gt;実にさまざまな意見が出た。相手が見えない中で順序よく次々と意見が述べられていく演出はたいしたものでそれなりの効果はあるように感じた。&lt;br /&gt;自分は、このゲームのなかで、立ち上がってこう発言した。&lt;br /&gt;「沈むのにいくらも時間がないというのに、こんなところで延々と議論している暇なんかありません。船の中には探せば水に浮く木材などがあるはずです。それで筏でも造ればいい。わたしはこれからそれを探しに行きます。ついてくる人はいますか？」&lt;br /&gt;数人の賛同者が現れた。が、そこでゲームは中断となった。このゲームを指導していた講師は、&lt;br /&gt;「あなたのやったことは、ルール違反で、ゲームを台無しにするものだ。このゲームではそういうことが求められているのではない。あなたのような考え方は、皆が一つのことに真剣に取り組んでいる雰囲気に水を差す。迷惑になる。よく自分の行動を考え直せ」&lt;br /&gt;と言った。&lt;br /&gt;あまりのばかばかしさに、一気にその自己啓発セミナーと講師への信頼感が薄らいだ。もっとも最初からあまり信用はしていなかったけれど。&lt;br /&gt;このゲームの設定のような非合理で非現実的な状況は最初から破綻している。そのことに目をつぶったままもっともらしく議論を続けるのは、本当にそれを現実の状況とした場合は、それこそ身の破滅でしかない。また、議論からはみ出た選択肢を示したことがルール違反と言われるようでは、真の解決策などどこにも出てこようはずがない。問題を解決するために創造的な思考を求めることもなく、ただただ、自己中心的な人間の本性の醜さを鑑賞したり自己犠牲の欺瞞を美化した行動を賞賛するだけの感情的情緒的なお遊びになってしまう。それが目的だと言われればそれまでではあるが、不幸なことに自分の頭は、そのような感覚になじむようにはできてはいない。&lt;br /&gt;こんな話もある。ある本の中でのたとえ話だ。&lt;br /&gt;「人間は太陽と自分の死を見つめることはできない。太陽を凝視すれば目が潰れる。自分の死をみつめたらおそろしいことになる。なぜなら、それはわからないことだから、どんどんとおそろしくなってしまうからだ」&lt;br /&gt;ちょっとした文学的な比喩表現だろう。しかしこれも、太陽を引き合いに出したところで、話が破綻している。太陽は煤をいぶし付けたガラス板を通して見ることができる。小学生の頃に、実際そうやって日食を観察した。現実的、科学的思考をバックグラウンドに持つ人間は、即座にそう言うふうに考えてしまう。&lt;br /&gt;リアリストというのは、たいがいそういうものではないかと思う。だからこそ、ルールの外に出て新たな可能性を見つける能力も持っている。これは創造的な思考である。&lt;br /&gt;創造的な思考というのは、一般的には理想家や夢想家の十八番のように思われているが、決してそうではない。事実を疑うこと、ルールを破ること、現実を直視して最適の解を探し求めることが、真に創造的な思考の源だと言える。そういう思考は、えてしてリアリスト、現実主義者のもっとも得意とするところだ。&lt;br /&gt;理想家や夢想家は、おのれの思いこみと決めつけを信じて論旨を展開する。そうやって自分に都合の良い世界の中で演繹的に思考を展開しその論理に自己陶酔する。これは創造的な思考とはまったく方向性の違う考え方だ。そこのところが誤解されている。&lt;br /&gt;世間一般に考えられている現実主義者のイメージとその実態には大きなずれがある。創造的な思考も仕事も、実際は、夢を語る理想家や夢想家からではなく、煮ても焼いても食えないような始末の悪い現実主義者の頭から生まれ出るものなのだ。&lt;br /&gt;さすがに自分が創造的な思考に優れているなどと言いきることは憚られるが、すくなくとも非合理なルールに縛られて限定された世界の中で延々と論旨を展開し、自己陶酔するような愚は犯しようがない部類の人間に入っていると自認している。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<title>孤独死</title>
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<description>新聞に、自宅で誰も知らないままに亡くなり、発見が遅れることもある「孤独死」の事が...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;新聞に、自宅で誰も知らないままに亡くなり、発見が遅れることもある「孤独死」の事が取り上げられていた。&lt;br /&gt;その記事では、社会的に孤立した一人暮らしの高齢者が、病気などで倒れても外部に連絡するすべがないままに死ぬ事を「孤独死」と定義づけている。確かにそれは問題だ。すぐに処置すればとりあえず命を助けることができるかもしれない状況で、その連絡が取れない、対応ができないというのは、社会のシステムとして看過できないことではある。しかし、それを「孤独死」などと言う言葉で呼ぶことが適切なのだろうか。なんだか問題の本質を取り違えているような気がしてならない。&lt;br /&gt;だいたい「孤独」という言葉には、寂しさとか、不幸とか言う情緒的な要素がつきまとう。高齢者の一人暮らしが必ずしも「孤独」かどうか、そんなことは本人に聞いてみなければわからない。社会的に孤立していることを自ら選んだ場合だってあるだろうし、一概に老人が一人暮らししていることについて、「孤独」である、そして「孤独」であることが、「不幸」である、などと決めつける必要はどこにもないはずだ。&lt;br /&gt;どの様な生活をするかということは、基本的に個人の意志によるものだ。端からとやかく言われるようなことではない。問題は、救急時に対応が取れるかと言うこと、それから、死んでしまった場合に、できる限り早くその後始末ができるかということだろう。&lt;br /&gt;発見が遅れたら、本人にとっても周囲にとっても、いろいろと手間がかかる。病気や救急の場合は、本人の命を救えるかどうかについて、迅速にその対応が取られるときよりは確実に条件の悪い困難な状態で救命活動を行わなければならず、命を落とす確率も増えるし、加療やその後の治療回復についても時間も費用もかかることになる。&lt;br /&gt;また、周囲に気付かれずに亡くなった場合は、保健衛生上の問題もあるだろうし、死んでから長時間立っている場合は、死因の解明や死体の処理、住居の後始末などの問題ややっかいな手続きなどの手間もたくさん出てくるだろう。&lt;br /&gt;しかし冷静に考えたら、そういう事態が起こったときに、迅速かつ着実に処理を行う仕組みさえできていれば、一人暮らしであろうと何であろうと、何を問題にすることがあるだろうか。&lt;br /&gt;「孤独死」がいけない、などという理由はどこにもない。本人が好んでそうするかどうかは別として、「孤独死」を問題にする一番の理由は、周囲の手間が増えることと、感情的に哀れを誘ったり嫌悪感を抱いたり、または自分の身に考えを巡らしてそのようなことを避けたいと考えたりするからにちがいない。「孤独死」をいけないものとする基準は、本人の気持ちや都合ではなく、周囲の人間の都合によるものだといってもよい。&lt;br /&gt;だとすれば、「孤独死」を避けることもさりながら、「孤独死」が起こったときに、どのように処理するかというシステムが確立されていれば良いだけの話になる。&lt;br /&gt;新聞記事によると２００５年に「孤独死」した一人暮らしの人は東京２３区だけで４７２９人。そのうち５０歳代６０歳代が５５％を占め、その６５％が男性で死因の２３％はアルコール性肝疾患と自殺だということを強調している。しかし、２００３年の主要死因別死亡者数を見ると、総数約１０１万５千人のうち、癌で亡くなった人が約３１万人、心疾患１６万人、脳血栓１３万人、肝疾患１万６千人、自殺３万２千人となっている。肝疾患と自殺を合計すると４万８千人だから、その割合は４．８％。さきほどの「孤独死」した男性の肝疾患と自殺の割合は、６５％ｘ５５％ｘ２３％＝８．２％だから約２倍。この年齢の女性の自殺者は男性の１割程度だから、大きく見積もっても９％。この差を大きいと見るかそれほどでもないと見るかの違いはあるだろうが、どっちにしろ、一人暮らしで世間とのつきあいのない高齢者の男性の死因の１割以下でしかない。これを特におどろくほどの数値として取り上げる方がおかしい。これが普通の姿なのだと考えるべきだろう。&lt;br /&gt;また、２００６年に、内閣府が実施した高齢者の生活実態調査で、一人暮らしの男性のうち２４％が「近所づきあいがない」１９％が「心配事の相談相手がいない」と答えているというが、この数字は、もともと問題のある一人暮らしの男性に対してさえも、ある程度社会的なサポートが存在していると解釈するほうが正しいと思う。&lt;br /&gt;平成１７年度の国勢調査による「一人暮らし高齢者」の推計値は386万世帯。うち女性世帯は３／４を占める。さらに「孤独死」の大半は、もともと問題のある一部の男性高齢者であるはずである。だから、一人暮らしの高齢者が「孤独死」する確率を正確に計算したら、かなり低いものになるはずだ。しかし低い確率であっても、「孤独死」の及ぼす周囲や社会への影響や負担が大きいからこそ、社会問題として取り上げられているのであろう。&lt;br /&gt;「孤独死」を予防するためにと、地域でボランティアが一人暮らしの老人を訪ねて回る「見守り活動」や老人会や自治会によるお互いの「声かけ」活動が推奨されたりしているが、もっと重要なのは、社会システムとして、必然的に起こる「孤独死」をいかに適切に混乱や負担なく処理する仕組みを作るかと言うことだろう。&lt;br /&gt;こういう問題は情緒とか感情問題が絡まるから物事がややこしくなりやすいが、事実を真正面からとらえて、あるものはある、として冷静に対策を立てることの方が現実的だし、合理的だと思う。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<title>コーヒーの記憶</title>
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<description>明るく透明な日差しがココヤシの葉を通して降り注ぐ朝、波に洗われる砂を踏んで茅葺き...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;明るく透明な日差しがココヤシの葉を通して降り注ぐ朝、波に洗われる砂を踏んで茅葺きのメス（食堂）に入り、テーブルに座って、いつものように眠そうな顔のマスターに声をかける。&lt;br /&gt;「スラマッ・パギ。アパカバル？（おはよう。げんき？）」&lt;br /&gt;「ヤ。スラマッ・パギ。ミンタ・コピ？（ああ。おはよう。コーヒーかい？）」&lt;br /&gt;インドネシアのロンボク島マングローブ植林事業のベースキャンプ、シオラコテージの一日はいつもこんな風に始まった。&lt;br /&gt;しばらくして運ばれてくるのは、ビールジョッキのように大きく重いグラスになみなみと注がれたコーヒーとグラニュー糖の砂糖壺。&lt;br /&gt;パウダー状のコーヒー粉を入れたグラスに熱湯を注いだだけのコーヒー。&lt;br /&gt;カレースプーンのような大さじでグラニュー糖を３杯も４杯もすくい入れてかき混ぜ、粉が沈殿するのを待って、強い香りを楽しみながら甘い甘いコーヒーをすする。&lt;br /&gt;ボートの準備、苗の積み込み、今日の作業の手順の打ち合わせ。&lt;br /&gt;厳しい作業の前の朝のひとときが、いつものように過ぎていく。&lt;br /&gt;日陰ひとつない熱帯の無人島での作業は、ものすごい勢いで体力を消耗する。&lt;br /&gt;そこでは、この甘いたっぷりとしたコーヒーが必需品だった。&lt;br /&gt;作業中、おもわぬスコールでずぶ濡れになることもあった。&lt;br /&gt;雨があがり、乾いた風が吹きだすと、今度は気化熱で急速に体温が奪われる。&lt;br /&gt;熱帯だというのに、寒さに身体を震わせながら帰り着いたコテージでは、マスターがあの甘いコーヒーをたっぷりと用意して待ってくれていた。&lt;br /&gt;夜もまた、ガスランプがともる茅葺きの食堂で、天の川が美しい星空をみながら、このコーヒーを楽しんだ。&lt;br /&gt;今、都会で味わうコーヒー。&lt;br /&gt;香りも味も比べものにならないほど洗練され、上品なカップに注がれたコーヒー。&lt;br /&gt;なんの非のうちどころもなく、飲むたびに安らぎと満足を与えてくれる。&lt;br /&gt;なのに、私の舌は、今でもときおり、熱帯で過ごした厳しくも楽しかった日々の記憶とともに、あの素朴なコーヒーの、甘い味と強い香りを探し求めている。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<title>地下鉄の車両になぜ窓があるのか</title>
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<content:encoded>&lt;p&gt;地下鉄は地下のトンネルのなかを走る。だから地上を走る電車のように、窓から外の光を取り入れる必要もないし、窓があいていても見えるのはコンクリートの壁だけだ。そんな地下鉄の車両になぜ窓があるのだろうか。同じようにコンクリートの筒の中を上下するエレベーターには窓は無い。最近のビルの外壁に取り付けるエレベーターは後部に展望用の窓が大きく開いていたりするけれど、これは目的が違う。本来外を見る必要のない、見てもトンネルの壁しか見えない地下鉄の車両に窓があるというのはどういうわけか、その理由を考えよ。&lt;br /&gt;これは、普段疑問とも思っていない事柄にあえて疑問を抱いて、創造力を鍛えようという講義で出された設問だそうだ。答えはいろいろあった。代表的なものは、駅に着いたことがわかるように、だとか、窓がないと不安になるから、とか、プラットホームから電車の中の混み具合がわかるように、とか、換気のために必要だから、などというものである。だがこれらは皆、本質をついていない、と講師は言う。&lt;br /&gt;講師が認めた、一番秀逸な答えというのは、こうだ。&lt;br /&gt;「地下鉄というものができる前から、鉄道はあった。そこを走る車両には、窓があるのが当たり前であった。人々の頭の中には鉄道の車両というものは窓があるものだという既成概念ができあがっていた。だから地下鉄ができて、地下のトンネルに走らせることになったとき、なんの疑いも持たずに、窓を持つ車両の形態をそのまま踏襲して持ち込んだのだ」&lt;br /&gt;この回答は、たしかに一理あるようにみえる。しかし、地下鉄発達の歴史的な背景を全く考慮していないし、窓の物理的、心理的な機能についての観点からも考察が不十分な分析としか言えないように思われる。だいいち、地上の鉄道に窓があるのを当たり前と決めつけるところからして、客観性を欠き思いこみを述べるだけものとなってしまっている。&lt;br /&gt;地上を走る車両に窓がある理由は、乗客の利便と快適性を確保するために光を取り入れることと、外部の状況確認や観覧展望の要求から窓を設けることが必須の条件だ、ということだ。だからその必要のない貨物車、家畜車などには窓はない。&lt;br /&gt;地下鉄の歴史はイギリスで始まった。鉄道の建設がはなやかかりし１９世紀の中頃、すでに建物が密集していたロンドンの市街地に鉄道を通すため、地下を利用しようというアイデアが実行されたのだ。これは 1834年に開通したテムーズトンネルをヒントにしたものだという。しかし、この鉄道は1863年の開業から1905年に電化されるまで蒸気機関車が使用されていたため、駅構内は密閉された地下空間ではなく、天井がない吹き抜け構造だったし、路線の一部も掘割になっていた。つまり、現在のように最初から地下トンネルの中だけを走る純粋な地下鉄ではあり得なかった。ここにまず、地下鉄の車両が地上車両と同じ構造を持つ起源がある。&lt;br /&gt;現在でも、たとえば東京の丸ノ内線は四谷駅や後楽園駅、銀座線は渋谷駅で地表に出、あろうことか地上高架でJRの上をまたいで走っていたりもするし、札幌地下鉄などはかなりの部分が地表を走る。その他、大阪の御堂筋線に限らず地表を走る鉄道と直通乗り入れしている地下鉄はごく一般的と言って良いくらいである。このように地表を走ることが普通に求められる環境条件下で窓のない車両を採用することなど、感覚的にも機能的にも考えられない。なべて、設備や機械装置の構造は必要性があるからこそ、そうなっているのである。&lt;br /&gt;また、最初に講師に陳腐な発想だと一蹴された、「駅についたことがわかるように」という答えは、十分に納得できるもののはずだ。電車が停止したとき、もし窓が無かったとしたら、乗客は車両の内部にいる限り、路線のどの部分にいるかを物理的に知ることができない。乗客は、車両が停止したこととドアが開くことによって、はじめて駅に着いたことを知る事になる。ということは、車両が停止してもそれがトラブルで停止したのか、駅について停止したのか、わからない。窓ではなく、モニター標示などで知らせることができるという意見があるかもしれないが、そんなものは電気的な故障があったら役には立たない。直接外部を視認できる構造が一番確実だ。&lt;br /&gt;また、窓は緊急時の脱出口としての意味合いもある。そのような用途まで考慮するとしたら、窓ほど都合の良い構造物はない。ようするに窓もしくは窓に変わる機能を持たない車両はフェイルセーフという観点からも明らかに欠陥品だといえる。窓がなければ構造は強固になる。あえて強度を落としてまで窓をつくっている理由はここにあると言っても良い。&lt;br /&gt;そんなことより、なによりも、人間は窓のない車両のような密閉した狭い空間を本能的に嫌うものだ。ましてや外界の様子を把握することもできずに狭い空間に閉じこめられたまま高速で様々な方向に加速度を感じながら運ばれることを想像して欲しい。閉所恐怖症であろうがなかろうが、その不快感、恐怖感は並大抵のものではないはずだ。&lt;br /&gt;じゃあ、エレベーターはどうなのだ、ということになるが、あれももともとはオープンなスタイルが基本だった。ヨーロッパのホテルなどでは今でも檻のような構造のオープンなエレベーターが普通に動いている。今のように密閉式が一般的になったのは、乗降時や稼働時の事故を防ぐためと、より多くの人間を一度に運ぶために大型化するにあたって構造を強固にする必要があったからだ。&lt;br /&gt;同時にその運行を内部から電気的に制御したりモニターする機構が整備されたことも密閉式のエレベーターの普及に一役買った。そのスタイルが一般化して小型のエレベーターも窓なしの箱型のものが普通になってしまったが、最近は犯罪防止や開放感の要求からドア部に窓が取り付けられたものも見られるようになってきている。&lt;br /&gt;窓から何も見えないということを、意味がないと判断することは間違いだ。そこには何もない、という情報がある。窓からトンネルの壁が後方に流れていく様子を見て、地下鉄が正常に走っていることを確認し、外側からエレベーターの窓を除いて、異変が起きていないかをチェックする。内と外を直接視覚的につなぎ、情報を伝達する窓の存在は必要不可欠なものと言って良い。&lt;br /&gt;つまり、直接的、物理的に外界をモニターすることができないような、窓のない密閉された空間の方が構造として異例なのだ。その証拠に、エレベーターでトラブルが合った場合の利用者の精神的ストレスは尋常ではないことも良く伝え聞かれる。&lt;br /&gt;これで、最初に引用した、地下鉄は地下のトンネルを走るから窓はいらないのではないか、という問いがいかに表面的な事象のみをとらえた底の浅いものであるかがわかったことと思う。飛行機になぜ窓がいるのかとか、地上を走る列車になぜ窓が必要か、事務所になぜ窓が必要なのか、などとほとんど同じレベルの思考だ。&lt;br /&gt;物事の一面だけを切り出して、その理由を観念的にとらえて新たな視点から分析したり議論したりすることは、たしかに面白く役立つことかもしれないが、この場合はあまりにも例が悪すぎる。設問も評価された回答もあまりにも陳腐に過ぎるというものだ。このような議論をすることが、創造的な発想をするきっかけになると主張するのは、あまりにも安易で甘い考え方ではないだろうか。&lt;br /&gt;私が、同じ設問を与えられたとしたら、まずは窓の効用をしっかりと分析しその必要性を機能面から客観的に論じた上で、「そこに外側があるからだ」とでも答えておこうと思う。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<title>頭の良さの計り方</title>
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<description>動物と人間を比較するときや、男性と女性を比較するときに、脳の容積や重さを、何CC...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;動物と人間を比較するときや、男性と女性を比較するときに、脳の容積や重さを、何CCだとか何グラムだとかといって比較することが多い。しかし、脳がどれだけよく発達しているかどうかを表現するのに、脳の皺のことを云々する。これは、脳の精神、感情その他理性的な活動を司る部分が大脳皮質といわれる部分であるという事実によっている。&lt;br /&gt;人間の脳では大脳皮質、特に新皮質の面積は約２２００平方センチメートル、厚さは２．５ミリメートル、ちょうど２つ折りにした新聞紙を２，３枚重ねたくらいだ。そこに含まれる細胞数は１４０億個にのぼる。このように大きな面積のものを一定の容積に詰め込んだときには、折りたたまれて皺ができるという考え方だ。新聞紙を丸めて小さな箱に詰め込んだのと同じだ。限られた大きさの頭蓋骨の中に、たくさんの脳をいれるにはこうしてくしゃくしゃにしておさめるしかない。&lt;br /&gt;だから実質的には、脳の大きさというのは容積のことをいっているのではない。その表面積を問題にしている。脳はその表面部分にその機能の大部分が存在するという前提にたっている。なのに、脳の大きさを比較するときに、容積や重さを取り上げるのはどういうわけなのだろうか。&lt;br /&gt;脳の容積や重さが問題なのなら、クジラやゾウのほうがよほど頭が良くていいはずだ。クジラの脳は7000g、ゾウの脳は4000gもあるのだから。また、脳の皺が多いからと言って知能が発達しているかどうかということもよくわかっていないらしい。たとえばイルカなどは人間よりも脳の皺の数がうんと多いという。&lt;br /&gt;もっとも、頭の良さというものを、どの様に定義するかと言う根本的な問題があるから、単純な比較はできないのは言うまでもないが。&lt;br /&gt;頭の良さというのは、その生き物が活動するに当たっていかに的確で迅速に物事を記憶したり考えたり判断を下せるかということだ。これはひとそれぞれ、生物それぞれによって全く違っていても不思議はない。人間の例でいえば、ある一定の事柄にはものすごい興味を示し活動的になるのに、他のことには無気力と言っていい生活をしている人種がいる。身近なところでは、こういう人間はオタクといわれるが、おおかれすくなかれ科学者は専門家に関しては、こういうタイプの方が普通なのではないだろうか。&lt;br /&gt;オタクといわれるのは、興味を示す対象が、いわゆる一般大衆の平均的な嗜好に合致しないと言うだけの話だ。その一般大衆の平均的な嗜好というものは、酒と女とばくちに代表されるような、どうひいき目に見ても人間の欲求としては極めて下位に位置づけられるものなのだけれど、そこのところに疑問や批判が集中することはまずない。だから、そんな下位レベルの欲求に反応する頭より、オタクの頭の方がよほど優れているとも言える。つまり、何とでも言えるわけで、一般に考える頭の良さというものは何を基準に考えたらよいのか、いよいよわからなくなってくる。&lt;br /&gt;生物としての基本に戻って、その生存能力が高いかどうかということ、言い換えれば、いかにその生物が置かれた自然環境および社会環境条件に適応して有利な立場を確保しつつ生存していくことができるか、子孫を残していくことができるか、と言う能力を考えたとき、自分を取り巻く状況に適切に対処するための物理的に体力的なことと、最善の選択を行うための認識、思考、判断にかかわることの２種類の要素が考えられる。そのうち、後者の認識、思考、判断にかかわる要素を頭の良さの基準とするのが適当だろう。&lt;br /&gt;しかし、その頭の良さの基準は、その生物や個体が置かれた環境条件、社会条件によって全く違う。空を飛ぶ鳥と水の中に住む魚、イルカ、陸上の獣類、樹上生活をする動物、それぞれに求められる能力は違うし、この能力を単純に物事の認識能力や関連づけ、言語能力、学習能力などで判断することも、ほんとうに正しいのかどうかはわからない。要は、その生物が生存競争に有利に勝ち残り子孫を残すことができるかどうかと言うことだけが、結果としてのその生物の頭の良さの基準になると言ってもいいだろう。&lt;br /&gt;人間で言えば、男性が仕事をする上で求められる能力の発揮の仕方と、女性が家事を捌きながらコミュニティーのなかで当たり障り無く適切にやっていく能力の発揮の仕方、そしてそれに求められる知能や知恵の性質は全く違うはずだ。そこにはそれぞれに最適の能力の発揮の仕方、頭の使い方があり、その場その場で全くちがう頭の良さの基準がある。&lt;br /&gt;そんな、一定の基準のない頭の良さを計測するのに、絶対の尺度は無い。対象とする生物の行動や何かに対処する能力を見て、質的に極めて曖昧かつ独断的に判断を下すことは可能だが、明確な差を量的に計測する方法などない。頭がよいか悪いかなどという、感覚的、主観的には簡単に判断できるような事を、客観的に計測し、評価することがいかに難しいかということだ。&lt;br /&gt;そこで、当たらずとも遠からずということで、代替的な計量方法として採用されているのが、脳の容積や重さ、と言うことなのだろう。この例は、きわめて乱暴でアバウトなものかもしれないが、正確に計ることができない性格のものについて、その評価を行うためにある基準や尺度を設けなければならない場合の、究極的な選択だと言っていいと思う。&lt;br /&gt;このような割り切り方は、扱い方を間違えると危険ではあるが、一定の指標的基準、尺度を求めるためにはやむを得ないことだし、これで十分に目的が達成される事柄も多くある。&lt;br /&gt;だから、ほんとうは、その尺度の正確さや妥当性を云々するより、どのようにそういう尺度を使いこなすかが、重要なことなのだろう。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<dc:date>2007-01-31T19:14:09+09:00</dc:date>
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<title>あなたはウマとヒツジとサルとトラを連れて旅をしています</title>
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<description>どこかで見たようなパズルのような問題が、ネットで紹介されていた。 ―――――――...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;どこかで見たようなパズルのような問題が、ネットで紹介されていた。&lt;br /&gt;――――――――――――――&lt;br /&gt;あなたはウマとヒツジとサルとトラを連れて旅をしています。今、目の前に川があって渡らなければなりません。ですが、小さな舟が一艘しかないのです。この舟はあなたが漕がなければ動きませんが。あなたが乗ると動物は1頭しか乗れません。あなたは動物をどんな順番で渡しますか？&lt;br /&gt;――――――――――――――&lt;br /&gt;こういう問題を出されたら、どんな風に答えるだろう？&lt;br /&gt;通常はまず、ウマとヒツジとサルとトラの相互関係を考えると思う。そして与えれた条件から、勝手に一定のルールを想定して、論理的に河を渡す順番を考えるのではないだろうか。&lt;br /&gt;「あなた」はこの４頭の動物をいっしょに連れているわけだが、この中で唯一トラのみがプレデター（捕食者）だ。だから、放っておけば他の動物を補食してしまう極めて危険な動物なわけで、一緒にひもや鎖につないで歩いていたりしたら、羊などは真っ先に襲われてしまうだろう。&lt;br /&gt;だから、トラを檻に入れて、馬に牽かせた荷車に積んで運ぶのが一番安全と言うことになる。この場合はヒツジはひもにつないで引っ張ればよいことだし、サルもひもにつないで自由にさせておけばいい。&lt;br /&gt;しかし、「あなた」は、船で１頭ずつ川を渡すというのだから、荷車などは無いと考えて良い。つまり、ひもにつないで連れて歩いているとしか考えられない。ということは、トラは非常に馴れていて、他の動物を襲わないと言う前提とも考えられるが、船には１頭しか乗せられず、岸に３頭残していかなければならないという条件が設定されている。これは、岸に残される動物の組み合わせによって、何かしら問題が起きるということを暗示しているに違いない。&lt;br /&gt;そう考えて、「あなた」がいて見張っている場合や相手が２頭以上いる場合はトラは他の動物を襲わない、とか、ウマは１頭にすると走って逃げてしまうとか、サルはすばしこいのでトラには襲われないが、トラがいないと他の動物にちょっかいを出して逃がしてしまうとか、そういう条件を勝手に想定する。そうして、論理的にパズルを解くように考えを巡らすに違いない。&lt;br /&gt;そうした場合の答えは、たとえば次のようになる。&lt;br /&gt;トラをサル以外の動物と置き去りにすることはできない。だから、まずトラを向こう岸に渡して、一人で帰ってくる。&lt;br /&gt;次にヒツジを渡して、帰りにトラを連れて戻ると、向こう岸にはヒツジが１頭、こちら岸にはトラとウマとサルになる。そこで、こちら岸にトラとサルを残して、ウマを船に乗せてわたる。サルはすばしこすぎてトラには襲われないからだ。そして一人でこちら岸に戻る。これで、向こう岸にヒツジとウマが、こちら岸にはサルとトラがいることになる。&lt;br /&gt;こちら岸にもどった「あなた」はこんどはトラを乗せて向こう岸にわたる。向こう岸にはヒツジとウマの２頭がいるので、トラと一緒に置いておいても襲われることはない。&lt;br /&gt;そこで、「あなた」は一人でこちら岸にもどってサルをのせて向こう岸に渡り、これで問題なく４頭を向こう岸に渡らせることができる。&lt;br /&gt;というわけだ。&lt;br /&gt;つまり、渡す順序は、トラ、ヒツジ、トラ、ウマ、トラ、サル、と言うことになる。&lt;br /&gt;こういう類のパズルはあちこちでよく見かける、どうと言うこともないお子様向けの簡単なパズルだ。条件を満たすようにトラを何度か言ったり来たりさせるという発想ができるかどうかがポイントだろう。と言うようなことを考えながら、記事の続きを読み進んで、唖然というか、呆然としてしまった。&lt;br /&gt;筆者は、「トラ→ウマ→ヒツジの順番。サルは肩の上に乗せておくか、背中にでもしがみつかせとく」と答えて、そこにいた全員が大爆笑となり大いにもりあがった、というのだ。&lt;br /&gt;なんだ、これは？　なにがおかしいのだ？　なにがどうなって爆笑したり盛り上がったりしなければならんのだ？　&lt;br /&gt;そもそも、この答えは、パズルにまともに答えたことにも何にもなっていないじゃないか、とさらに読み進むと、この問題は心理分析をするための設問で、トラは自尊心、ウマは仕事、ヒツジは子ども、サルは恋人若しくは配偶者を表すのだそうだ。それで、大事にしている順に川を渡す、というとのこと。これで、その人の大事にしているものや性格、性向が分析できるというのだ。&lt;br /&gt;なにをかいわんや。どこをどう押してどんな根拠があって、トラは自尊心、ウマは仕事、ヒツジは子ども、サルは恋人若しくは配偶者、なんて関係づけができるというのか。子供でもやらないような強引で安易な意味づけと、その分析の稚拙な内容に、あほらしさと脱力感を通り越して、腹が立ってきそうな気分になった。&lt;br /&gt;記事を読んでいくと、この「心理分析テスト」は、ある研修会の息抜きとして出されたものだと言う。いったいどんな研修なのだろうか。このなんの意味もないこじつけのお遊びとも言えないような「心理分析テスト」に、研修参加者全員、何の疑問もなく乗っかって和気藹々と盛り上がり、うれしそうに話題にしている状況を想像して、薄ら寒くなってしまった。&lt;br /&gt;この「心理分析テスト」で場がほぐれ、その後の研修の効果も倍増したと言うのだが、その場で、だれひとり、この根拠も理屈もへったくれもない「心理分析テスト」やらに、疑問やばかばかしさを感じる人間がいなかったのだろうか？　もしいなかったとしたら、絶対に異常だ。&lt;br /&gt;しかし、こういう雰囲気の場では、かえって論理的判断のできる人間、普通の神経の持ち主は浮いてしまうのかもしれないと思い当たった。群集心理、集団ヒステリーと同じような心理的現象なのだろう。そんな雰囲気に乗れる人間のタイプには、一定の傾向があるように思う。こういうタイプの人間を操る方策として、この稚拙で無意味な「心理分析テスト」のような道具立ては、非常に効果的なのかもしれない。&lt;br /&gt;ただ気になるのは、彼らの思考回路や性向は、一般庶民大衆として十把一絡げに論じられているそれに近いのではないかということだ。量は力なりである。大勢をしめるこのタイプの群衆を思うようにコントロールするテクニックとして、このような意味も論理思考もない感覚的で稚拙なトリックが有用だというのは、なんだかとても危ない事実であるように思う。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<title>メガマックの次は？</title>
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<description>メガマックというのは、ご存じマクドナルドの期間限定特製品の名前である。 普通のハ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;メガマックというのは、ご存じマクドナルドの期間限定特製品の名前である。&lt;br /&gt;普通のハンバーガーに挟んであるビーフパティを２枚にしたビッグマックはずいぶん前から通常のラインナップとして登場していた。でもこれではまだインパクトがたりなかったらしい。メガマックは、間に挟んであるビーフパティを４枚にし、これ一個で７５４キロカロリー。チャーハン１杯分、野球のピッチャーが１試合に消費する量と同じカロリーだそうだ。&lt;br /&gt;メガロポリスという言葉がある。これは、超巨大都市圏または巨大都市という意味。もともとは首都や国の政治経済の中心となるような大きな都市をメトロポリスと言った。メトロはギリシャ語のmetera、「母」から来ている。英語で言えばmather cityといったところだろうか。その大都市をさらにつなげて広がる都市圏として、都市を意味するpolisに、これもギリシャ語のmegar、「巨大な」という言葉をかぶせてつくられたのがメガロポリスだ。フランスの地理学者、ジャン＝ゴットマンという人が言い出した。&lt;br /&gt;メガマウスというサメの一種もいる。全長５メートル、重さ５００キログラムにも達する大きな魚だが、とにかく口が巨大で、その大きさをあらわしてメガマウスと名付けられた。太平洋やインド洋など熱帯から温帯に生息し、プランクトンを食べ、昼は水深100～200mにいて、夜間浅いところまで浮上してくるという。&lt;br /&gt;メガバンクと言う言葉も同じように、昨今の銀行合併によって生まれた超巨大な金融組織を指す。&lt;br /&gt;メガマックも、そのボリュームと巨大さからメガと言う言葉を接頭詞に選んで命名されたのだろう。しかし、見たところそのボリュームに比べて、値段がいかにもリーズナブルだ。ビッグマックより７０円高いだけの３５０円という値段につられて、筋金入りのケチンボの息子が早速食べてきた。&lt;br /&gt;感想は、「ぱさぱさしてうまくない」の一言。もともとマクドナルドのハンバーガーってビーフパティがボール紙みたいでそんなにうまくもないものだというのは知っていたけれど、それが４枚重なってもやっぱり味は同じだったと言うことか、と変なところで感心してしまった。&lt;br /&gt;ところで、メガと言う言葉はメガマックやメガマウス、メガバンクなどに使われている意味の他に、数量の単位としての意味がある。千の単位がキロ、メガはその２乗の１００万に当たる。３乗の１０億はギガとなる。&lt;br /&gt;だから、メガマックの上はギガマックだ！などと言ってビーフパティを8枚挟んだハンバーガーをつくって喜ぶやつがいるのではないかと思っていたら、やっぱりいたので苦笑いしてしまった。これである。&lt;br /&gt;&lt;a href=&quot;http://blog.mantiddesign.com/2005/12/diary_20051221_wed.html&quot;&gt;やってやったぜギガマック&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href=&quot;http://blog.mantiddesign.com/2005/12/diary_20051221_wed.html&quot;&gt;http://blog.mantiddesign.com/2005/12/diary_20051221_wed.html&lt;br /&gt;&lt;/a&gt;しかし、この御仁、６枚のビーフパティを挟んでギガと称して喜んでいるところを見ると、あきらかに文化系の人間らしい。ビッグマックのビーフパティ２枚をキロマックとするなら、メガマックのビーフパティ４枚は、キロマックの２倍ではなくて２乗になる。だから、ギガマックはビッグマックのビーフパティ２枚の３倍である６枚ではなくて３乗の８枚にならなければならない。この勘違い、というか無教養は嘆かわしい。&lt;br /&gt;それはさておき、そうなれば当然、ギガマックの上は何になるのか、と言う方向に話が進まないではいられない。それが自然の摂理というものである。&lt;br /&gt;SI（国際単位系）では、ギガの上はテラ。だからギガマックの上はテラマック。２の４乗つまり１６枚のビーフパティがバンズの間に挟まれる。漢字変換するとギガマックは戯画マック、テラマックは寺マック。寺マックを食べたらカロリーオーバーで、即お寺行きという冗談にも使えるだろうか。&lt;br /&gt;で、これまた当然のことながら、さらにその上は何かということになるはずだ。国際単位系では、K(キロ) M(メガ) G(ギガ) T(テラ)の先は、P（ペタ）E（エクサ）Z（ゼタ）と続き、Y（ヨッタ）でおしまいになる。つまり国際単位系では、２の８乗の２５６枚のビーフパティを挟んだヨッタマックでおしまいである。&lt;br /&gt;この先は無いのか、とこれまた当然のことながら考える人が出てくるに違いないが、心配しなくても大丈夫。漢数字の単位系には、ちゃんとその先も用意されている。&lt;br /&gt;その単位名を列記すると、下記のようになる。&lt;br /&gt;一　十　百　千　万　億　兆　京　垓　禾|予　穰　溝　澗　正　載　極　恒河沙　阿僧祇　那由他　不可思議　無量大数&lt;br /&gt;（注：「禾|予」は編が「禾」造りが「予」で構成された漢字を示している）&lt;br /&gt;万までは１０倍づつ、万以上恒河沙までは万進、恒河沙以上無量大数までは万万進だ。なんとまあものすごい概念であることか。古来からこういう単位大系があったということに、おもわず襟を正したくなってしまう。漢数字は偉大だ。&lt;br /&gt;しかし、最後の方の「恒河沙」、「阿僧祇」、「那由他」なんてのは、もう、なんのことやらわけがわからない。実際、わけがわからん想像もできないと言うことで、その後の「不可思議」や「無量大数」という単位名が付けられたのじゃないだろうか。ここまでくると、その数字の大きさを想像するだけで、あたまがくらくらとしてくる。&lt;br /&gt;こういう単位のマックをつくって遊んだやつはいないかと検索してみたら、やっぱりいた。これである。&lt;br /&gt;&lt;a href=&quot;http://www.eonet.ne.jp/~ddr-koji/22mac/22mac.html&quot;&gt;肉２２枚挟んだら何マック？&lt;br /&gt;http://www.eonet.ne.jp/~ddr-koji/22mac/22mac.html&lt;br /&gt;&lt;/a&gt;この連中もやっぱり単位のなんたるかを理解していない。いったい日本の教育はどうなっているのだ？&lt;br /&gt;こういう遊びをやるノリの連中というのは文化系に限られているのだろうか。決してそんなことはないとおもうのだが、なんだかちょっと寂しい気分におそわれてしまった。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<title>んの発音</title>
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<description>フランス語を勉強していちばん困惑したのが「ん」の音と「ら」行の音だった。 フラン...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;フランス語を勉強していちばん困惑したのが「ん」の音と「ら」行の音だった。&lt;br /&gt;フランス語ではHは発音されない。そのかわりにRの音がまるでHのように聞こえる。&lt;br /&gt;これは、舌を丸める代わりに、口の中いっぱいに広げ奥の方を膨らませてRの音を出すからで、聞きようによっては、Hに近い擦過音になる。この音を出すのと聞き分けるのが一番やっかいだった。&lt;br /&gt;しかし一般には「ん」の音の方がよく話題にされる。あの鼻に抜ける独特の音が、フランス語の雰囲気を醸し出しているといってもいいからだ。この音も日本人には難しいと言われている。それには理由がある。日本人の「ん」の発音は、実は音声学的には４通り以上もあるのだ。&lt;br /&gt;「ん」の発音は、前後に続く音や発音速度との関係で舌の位置が変化することによって、明らかに違う音として発音される。しかし、我々はその音をすべて一つの音として認識しているということらしい。日本人に、LとRの区別がつかないのと同じ理屈だ。&lt;br /&gt;しかし、「ら」行の音の場合は、もともとRに近い発音しかないということが区別のつかない理由だけれど、「ん」の場合はちょっと事情が異なる。&lt;br /&gt;先に触れたように、我々が発音する「ん」の音は、前後の音や速度、話者の癖で実にさまざまな音として発音される。その中には、フランス語の鼻母音のような甘く鼻に抜ける音もしっかりと含まれているのだ。&lt;br /&gt;音声学的にはいろいろと難しい定義があるが、わかりやすく整理しなおすと、次のようになる。ただ、これは正確なものではない。どちらかと言えば、後続音によって音が変化するということを意識した方がいいかもしれないのでご注意のほどを。&lt;br /&gt;「ngの”ん”」―　例：考える　ングと発音&lt;br /&gt;「nの”ん”」 ―　例：簡単　舌が上の歯につく&lt;br /&gt;「mの”ん”」 ―　例：乾杯　唇がくっつく&lt;br /&gt;「無音の”ん”」 ―　例：関心　唇も舌もどこにもくっつかない&lt;br /&gt;このうち、フランス語のｎの音に近いのは「無音の”ん”」だ。この場合は、先行母音の口の形、舌の位置のまま鼻に音を抜くことによって「ん」の発音をする。だから、もし、後続音がある場合は、この甘く鼻に抜ける音ではなく、日本人が一般的に考えている「ん」の音のように舌が口の中のどこかにくっついた発音となる。&lt;br /&gt;ところで、このフランス語のｎの音だが、実は関西人にとっては非常に耳慣れた発音しやすい音なのだ。実際、自分がたまたま関西人であったことが幸いして、フランス語を勉強するとき、この音に関してはまったく違和感がなかったのに、ちょっと面食らった覚えがある。&lt;br /&gt;たとえば、標準語の「○○をしたんだ」という表現は、関西弁では「○○したねん」または「○○してん」というふうになる。このときの最後の「ん」はすぐ前の「ね」や「て」の口の形のまま鼻に抜いて「ん」を発音する。表記的には「○○したねン」、「○○してン」という感じになるのだろうか。&lt;br /&gt;そのほかにも、自分で意識して発音したり、他の関西人ネイティブの会話を聞いていると、「ん」の音が単語の途中に来る場合も、この発音の仕方に引っ張られてか、しっかりと口を動かさず、鼻に抜ける音で発音することも多い。これは、話す速度が速いことにも影響しているのだろうと思う。&lt;br /&gt;だから、関西人の発音で特定の言葉を言ったとき、それがそのまま綺麗なフランス語に聞こえるなんて事も起こりえる。たとえば、標準語で「何しているの？」というのを、関西弁では「なにしとンのン？」というが、この「とンのン」というのが、そのままフランス語でton nom（君の名前）と聞こえてしまう。ちなみにフランス語の単語の最後に来るｍの音は鼻に抜けるｎの音と同じ音である。&lt;br /&gt;だから「捏ねているのか？」というのを関西弁で言うと「こねとンのン？」で、そのままconnes ton nom?　つまり、「（彼は）君の名前を知ってるのか？」といっていることになる。&lt;br /&gt;英語にも、What time is it nowを「掘った芋いじるな」と読みなす話があるけれどこれはなんとか想像できるかなというくらいのものだ。しかし、このフランス語の方は、本当に綺麗な発音として通じてしまうから、関西人の方は是非試してみる価値があると思う。&lt;br /&gt;たかが、「ん」の発音だけれど、よくよく注意して聞いたり発音したりすると、意外なくらいに複雑な音なのだなと気付かされる。語学の勉強をする場合は、そんなことにいちいちかまわずにどんどん読み、書き、しゃべることが大事なのだが、私の場合はこういうところでおもしろがってしまうから、いっこうに語学の勉強がはかどらないのかもしれない。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<dc:date>2007-01-25T13:47:23+09:00</dc:date>
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<title>容器の値段</title>
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<description>マーマレードが大好きである。 ちょっとまえまでは１０枚切りのサンドイッチ用にスラ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;マーマレードが大好きである。&lt;br /&gt;ちょっとまえまでは１０枚切りのサンドイッチ用にスライスした食パンをカリカリにトーストし、バターとマーマレードをたっぷりつけてミルクティーといっしょにいただくのが朝食の定番になっていた。&lt;br /&gt;とにかく、毎朝、これがないと始まらない。あのオレンジのフレーバーと甘さ、それからバターの風味と塩味が微妙に混ざり合った味が、カリカリにトーストされたパンの香ばしさといっしょに口の中に広がったときの幸福感は何物にも代えがたい。自分にとってはほとんど麻薬なみの効果と習慣性があったように思う。その味がまだ口の中に残っている間に、濃い紅茶にたっぷりの砂糖とミルクを入れたミルクティーを口に含むと、そのほどよい渋さとミルクのまろやかな味が、マーマレードとバターの余韻をくるむようにしてのどの奥に流し込んでくれる。&lt;br /&gt;この快感はもう完全に、病みつきという言葉が当てはまるくらいの嗜好になってしまい、かつて、ほぼ１年近く朝食はこの組み合わせだけで通しきったこともあった。&lt;br /&gt;これを知った嫁さんが、さすがに健康を心配したのか、バナナをオーブントースターで焼いたベークドバナナを勧めてくれて、最近はこれを食べている。バナナは熱すると持っている酵素が働いて、人間の免疫力を高める効果を持つようになるのだそうだ。それに、焼いたバナナは甘みも増して想像以上においしいので、これもまた定番朝食のレパートリーに加わった。&lt;br /&gt;それでも、やはり一週間に２回はマーマレードとバターをたっぷり塗ったカリカリのトーストとミルクティーを食べないと調子が出ない。だから、冷蔵庫にはいつもバターとマーマレード、それから冷凍室にサンドイッチ用の１０枚切りパンをストックしてある。パンは冷凍しておいて、そのままトーストする。そうすると風味が全く落ちないので、たまにしかトーストを食べない場合はとても便利なのだ。&lt;br /&gt;マーマレードはいつもスーパーマーケットで購入する。たいていは、パンのコーナーか、ジャムやスプレッドといっしょに並べられているのだけれど、いつも不思議に思うのはその値段のことだ。同じメーカーの同じ瓶詰めやペーパーカップ入りのものなら、ママレードとブルーベリーとイチゴのジャムの値段が同じなのだ。ほかにもイチジクやリンゴやカシスやいろいろあるけれど、みんな同じ値段であることが多い。これが、どうも気に入らない。&lt;br /&gt;というのは、マーマレードはオレンジの皮からつくる。本来ならジュースを取ったりしたあとに捨てる部分だろう。それが、イチゴやブルーベリーやリンゴやイチジクやカシスなどの実の部分からつくるジャムと同じ値段だというのはどうしてなのだろうか、と思うのだ。たかが２００円程度のものに、そんなに目くじら立てなくてもいいだろう思われるかもしれないけれど、毎日食べる身近なものだけに、よけいに気になる。&lt;br /&gt;しかし、いろいろ考えているうちに、よほど特殊で高価な材料ではない限り、ジャムやマーマレードの原価はその加工賃が大部分を占めるのではないかということに思い当たった。材料を選別し、洗浄し、鍋で煮て瓶に詰める手間のほうが大きいのに違いない。自分が家庭でジャムをつくる場合はこの労働力のことを意識していないから、すぐに材料費のほうに気を取られてしまうが、本当は人件費が製造原価の大きな部分を占めるのだ。これは、なにも食品に限ったことではない。&lt;br /&gt;ただ、ジャムやマーマレードのような保存食品の場合、製造原価のうちに占める部分がもっと大きい要素がある。それは瓶やカップなどの保存容器だ。缶詰や缶ジュース、ペットボトル入りのジュースなども同じ事が言える。その証拠に、どんな缶ジュースもペットボトル飲料も値段はほぼ同じに設定されている。これは、人件費や流通費用と容器の値段の製造原価に占める割合が圧倒的だと言うことを物語っている。&lt;br /&gt;実際、調べてみると、缶に限らず包装容器の値段というのは想像以上に高い。&lt;br /&gt;たとえば、環境省の資料では、350mlのアルミ缶が28円、1リットルのペットボトルが47円。奈良県生駒市の広報では、飲料用ペットボトル1～2リットルが47～62円、飲料用アルミ缶、スチール缶350ミリリットルは28円、飲料用紙パック（牛乳パック）１リットルは10円、食品トレイ白色が4円、色付きが15円、卵パックは1円、シャンプー用ポンプ式ボトルは137円となっている。&lt;br /&gt;缶ジュースの場合、販売価格を１２０円とすると、流通費用と販売コストが７０円程度を占める。だから缶ジュースの原価はだいたい５０円。そのうちほぼ３０円が缶の値段で残りの２０円が中身の値段。さらにその中身の値段の中に製造加工の設備機械償却費と人件費が入っているわけだから、原材料の値段は１０円以下だろう。つまり、原材料の占める割合は８パーセント程度しかないわけで、この値段が多少高かろうが安かろうが、販売価格に大きく影響することはないということだ。&lt;br /&gt;そんなわずかな差を、販売価格に反映させて、１円単位で値段を変えたりしたら、かえって流通コストがかかるのにちがいない。だから、缶ジュースもジャムやマーマレードも中身がどんなものであっても、だいたい同じ値段に設定されているのだ。&lt;br /&gt;もちろん、非常に特殊で高価な材料であるバラの花びらのジャムなんてものは別格だ。そういうものは、もともと一般のスーパーで売られるようなものではないし、初めから販売経路も購入者の層も違うのだから、一緒に考えてはいけない。問題にしているのは、私のような庶民がごく普通に消費している一般的な食品についてのことだ。だが、そういう製品だからこそ、原価は製造コストぎりぎりでつくられている。その中での原材料の占める割合が非常に低いからこそ、種類が違っても販売価格が同じという現象が起きる。&lt;br /&gt;ただ、どんなジャムやマーマレードやジュースなどの保存容器入りの飲料も、商品である以上はコスト割れしないように原価を計算しているはずだ。だから、おそらくは一番高い原材料に合わせて原価を設定しているのに違いない。だとすると、やっぱりマーマレードはほんのわずかだけれど、値段が高めに設定されているはずということになる。&lt;br /&gt;みみっちいと思われるかもしれないが、マーマレードファンとしては、やっぱりなんとなく納得のいかない気分はぬぐい去りきれない。かといって、安売りのマーマレードを買うことは禁物である。容器の値段や製造コストは変わらないのだから、値段が安くするには原材料の質を落とすしかない。だから、こういう安売りの品を選ぶときは、ラベルの製造原産国や成分表をよく見て判断することが一番大事なことはいうまでもない。&lt;br /&gt;ある意味でマーマレードやジャムほど、その風味に優劣のあるものも少ないと思う。安物買いは、ぜったいの銭失いになることだけは保証する。マーマレードフリークからの忠告である。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<dc:date>2007-01-23T18:40:47+09:00</dc:date>
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<title>百日続きました</title>
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<description>なんと、一日一作文章練習と称して、一作原則３０分から１時間以内で、粗製濫造の文章...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;なんと、一日一作文章練習と称して、一作原則３０分から１時間以内で、粗製濫造の文章作成を試みだしてから、今日で丁度百日目だ。&lt;br /&gt;お百度参りという言葉があるが、別に願をかけたわけでもないので、その効果をどうこう言うわけでもないが、それなりに現在までの効果を分析してみたい。&lt;br /&gt;まずは、書くことにそれほど苦痛を感じなくなった。キーボードに向かって、うーんとうなって指が止まってしまうということがなくなったということだろうか。それだけでもたいした進歩だと思う。&lt;br /&gt;ただ、その書き方は、最初からプロットを考え、箇条書きなどの方法で書き出したシノプシス、アウトラインに従って理詰めで書いていく様なものではない。ただ、頭の中に浮かんでくる順に話すように文字に変換していくというやり方を取っている。これが良いのかどうなのかわからないけれど、過去に書いたものを読み返して見ると、それなりにスムーズに大きな論理的破綻も無く読めるように感じる場合が多いのに、自分で驚いている。良く話す人の頭の働き方をシミュレーションして体験することが出来たという様なものなのだろうか。&lt;br /&gt;しかし、ミスタイプによる文章作成速度の低下への影響は大きい。これはもうちょっと真剣にインプットメソッドを鍛えれば改善するだろうことはわかっているのだが、いちいち画面を開いて単語登録をするのが面倒くさくて、ついそのまま打ち直したり、便利な変換をつくらずに毎回長い単語を律儀にタイプしていることが大きい。&lt;br /&gt;それでも、とにかく、こうやって頭から流れ出るままの文章が画面に転記されていく様子を、別の自分が客観的に眺めている様な独特の感覚が味わえるようになったというのは、ちょっとした成果かもしれないと思う。そのことが、文章を書く上でほんとうに役に立つことかどうかは知らないけれど。&lt;br /&gt;もうひとつ、興味深かったのは、情景の描写をする場合は、頭の中にビジュアルなシーンが現れるようになって、それを観察しながら文章にしていくという作業が、あきらかに意識的にできるようになってきたことだ。街の中や部屋の中など、初めから頭の中に細部にわたって立体の映画でも見るように情景が浮かびあがるので、説明するように文章化するのにそれほど苦労しない。これはおもしろい。&lt;br /&gt;問題は、表現するのに適当な言葉が見つからないことだ。こういうことをいいたいんだけれど、こういう意味のことを表現したいんだけれど、どういう言葉がいいんだろう、とかつて見聞きして記憶のどこかにあるように思う適当な単語や熟語を思い出そうとしても、どうしても出てこなかったり、とてももどかしい思いをすることが多くなった。&lt;br /&gt;やさしい言葉に置き換えて書いていくのは簡単なことだけれど、それではなんとなく文章の感じが変わってしまうように思う。変わったところで、どちらにしろたいした文章ではないことはわかっているのだが、このあたりの感覚に自分の自意識過剰な点が現れているのかなと思って、当惑気味になる。この適当な言葉を思いつくまで、または辞書などをひいて探し当てるまでに、文章をタイプしている以上の時間が消費されることもあるから、あらためて、語彙や表現に関する基礎知識というものが、文章を書く上で重要だと言うことも再認識した。かといって、この知識能力は簡単につくものではない。やっぱり適度に新たな情報を仕入れていくことが必要なのだろう。&lt;br /&gt;ところで、当初の目的であった文章を書く速さについては、すこしは早くなったと思う。もちろん、質の問題は別にしてのことだが。前にどこかで、１分間に４０文字程度が普通の速度だと読んだことがあるが、少なくともそのくらい以上にはなっている。ただし、これは書く文章のアイデアを思いついたり、細部を考えたりする時間、ミスタイプやこまごまとした修正をする時間を除いてのことだ。これを入れるともっと生産性は低くなる。実際最初に決めた１時間ルールを越えて時間を要した文章も多い。こまったものだ。&lt;br /&gt;今書いている様な文章は、キーをたたき出すまで、どんな風に書こうという様なプランは頭の中に無い。だからどんどんと思いつくままに文章を綴っていっているので、書き始めてから現在までで約２５分。ミスタイプや誤変換をしてかなり時間をロスしているけれど、書くだけならこんなものだろう。自分自身としては、この辺りが限界かなと思う。&lt;br /&gt;どちらにしろ、なにかしらテーマを思いつき、そのことに関連したことがらをそれなりに情報収集して文章を書き上げるというのは、今やっている話す様な書き方とは全く違うことは確かだろう。その場合はうんと時間がかかる。しかしそのかわり、論旨の展開は整理されるし、一つの作品として読むに耐えるものになるのだと思う。だから、今やっている書き方はそのときに、いかに的確に迅速に文章に変換するかという技術的なことを練習しているのだと割り切っている。&lt;br /&gt;もう一つ、面白く感じているのは、文章の量のことだ。一つのテーマを思いついて、特に情報を収集せず、頭の中に蓄えられている経験や知識のみに頼って論理を展開し、文章を書こうとすると、その分量はだいたい二千字程度になる。これは毎回わざといろんなタイプの文章を書くようにしているのだが、変わることが無い。大体二千字前後で書くことが枯渇してくる。どんなに引き延ばしても三千字がいいところ。四千字を越えるためにはおそらく、一つのテーマをいくつかの視点から見て説明したり分析し、論旨を展開していく作業が必要になるのだろうと思う。&lt;br /&gt;この経験をすることによって、世の中のたいていのエッセーらしきものが二千字程度で書かれている理由が、実感できた様な気がした。&lt;br /&gt;それがわかっただけでも、百日間一日一作文章練習を続けたかいがあったというものか。なんとなく成果が見劣りする様な気がしないでもないが、最初に言ったように、なにも願掛けしたわけではないので、こんなものなのだろうと自分で納得している。&lt;br /&gt;それにしても、よくもまあ百日も続いたものだ。これで、いったん文章練習は休止しようかと思ったが、せっかくここまでつつけたものなので、このあたりで、ペースを変えてこれからも続けてみようと思う。ペースを変えればまた違ったことに気づくと思うからだ。&lt;br /&gt;文章がうまくなるかどうかということは、もちろん別問題だけれど、石の上にも３年、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるというなんて言葉を、頭の片隅に置いて、がんばってみたい。&lt;br /&gt;というわけで、現在のタイトル「一日一作文章練習」改め、今後は「ほぼ二、三日に一作文章練習」として、このブログを継続することにする。&lt;br /&gt;以上、ここまで約４５分間で４０文字７４行の文章作成練習タイプたたき。今回はちゃんとした読み直し、誤字脱字修正その他書き直しはしないで終わる。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<title>南の島</title>
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<description>とにかく寒い。だからこの季節になると、南の島にあこがれてしまう。 いいなあ、南の...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;とにかく寒い。だからこの季節になると、南の島にあこがれてしまう。&lt;br /&gt;いいなあ、南の島。&lt;br /&gt;この言葉を聞くと、即座に、強烈な日差しと青い空に白い雲、白い砂浜とどこまでも透明な海、珊瑚礁の入り江に色とりどりの熱帯魚が遊ぶ熱帯の海岸の風景と、茅葺きのコテージのベランダに置いたチェアにゆったりと腰を落ち着けて、心地よく暖かい風が肌を撫でていく感触を楽しんでいる自分を想像する。&lt;br /&gt;やっぱり、瀟洒な作りの高級リゾートホテルが最高だろう。コテージの前には水面が太陽の光にきらきら光る白いきれいなプールがあって、いつでも熱く焼けた肌を冷たい水に冷やしながら、ゆったりと漂うように泳ぐことが出来る。プールの縁には、ドリンクバーがあって、水に浸かりながらちょっとした飲み物をいただきながら、コテージのベランダにいる家族に、こちらにおいでと手を振る、なんていう、これぞというばかりの南の島のリゾートシーンを頭に描いて、それだけでなんとなく幸せになってしまう。&lt;br /&gt;自分と同じように、たいていの人は、「南の島」という言葉を聞くだけで、もう、現実から遠く離れて、限りない幸せな気分に浸れるんではなかろうか。「南の島」という言葉には、それくらいの魅力と迫力がある。&lt;br /&gt;しかし、南の島って、現実にはいったいどのあたりの島のことを言うのだろう。&lt;br /&gt;東西南北というのは、だいたい自分がいる場所を中心として言う言葉だから、仮に日本の東京を自分がいる場所として考えたときは、南にある島は、近くは、八丈島・大島・新島・式根島・神津島などの伊豆七島、それに小笠原諸島、ということになる。しかし、この島々は東京都内なので、なんとなく南の島という感覚とはちょっとちがうような気がする。&lt;br /&gt;あえて、日本国内の南の島、といえるのは、沖縄県の諸島だろうか。でもあの島々は、南西諸島というから、正確には南には無い。だから日本の真南にある南の島ということになると、日本を離れて海外の島ということになる。&lt;br /&gt;世界地図を広げると、日本の南にあるのは、インドネシアのイリアンジャヤ、パプアニューギニア、それからニューカレドニアにオーストラリア。インドネシアはバリ島だとかロンボク島だとか、観光でも有名な島々があるから、イメージに近いような気がするけれど、他は、どうなのだろう。&lt;br /&gt;世界地図をつらつらと眺めると、典型的な南の島々のイメージである、ハワイやタヒチ、フィジー、モルディブ、プーケットやセブ島なんてところは、実は、日本の真南には位置しない。たしかに赤道に近い位置にあるから、南の方には違いないけれど、正確には南西か南東というべきだ。まあ、それを一括して南の島といっているといえばそれまでだけれど、このアバウトな言い方は、どうも納得がいかない。&lt;br /&gt;というのも、我々が日本という国に住んでいるから、これらの島を南の島、赤道あたりにある国を南の国なんて呼んで、熱帯の風情を思い浮かべるのだけれど、ヨーロッパに住んでいるひとにとっては、南に島なんかない。あるのはアフリカ大陸だ。だから、彼らの南のリゾート地は地中海の沿岸だし、対岸のアフリカ沿岸ということになる。アメリカやカナダのひとにとっては南の島というのはカリブ海に浮かぶ島々ということになる。&lt;br /&gt;もちろん彼らだって、インドネシアやタイ、フィリピンなどアジアの島々には頻繁にリゾートや観光に訪れている。その場合、彼らは、それらの国々の島々のことを「南の島」というイメージでとらえているのだろうか。&lt;br /&gt;日本で見る世界地図は、日本が真ん中にある。小学校の頃からこういう地図を見慣れているから不思議ともなんとも思わないけれど、これは経度でいうと東経135度線が中心に描かれた地図だから、きわめて自己中心的な地図だといっていい。世界の中心で愛を叫ぶなんて、素っ頓狂な題名の小説や映画が話題になったことがあったが、あれほど自己中な概念も無かろう。あんな題名を喜ぶ連中はどう考えても常識のない無知無能で自分勝手でマナーの悪い低脳な連中としか思えない。&lt;br /&gt;話がそれてしまった。つまり、本来の世界地図というのは、やはり経度０の基準線を中心に東西に180度、南北に90度展開した地図でなければならないということをいいたかったのだ。ネットで検索すると、真っ先に出てくるのはそういう標準的な地図である。それが普通だ。&lt;br /&gt;この世界地図で見ると、日本は右の端、はるか東の彼方にあるし、ハワイやタヒチなどの太平洋諸島は遙か西の端にある。日本人が南の島としてイメージする島は、ことごとく世界地図の西か東の彼方にあるのだ。これらの島々にヨーロッパのひとが「南の島」というイメージをもっているか、ちょっと尋ねてみたい気がする。&lt;br /&gt;じつは、もっと気になることがある。&lt;br /&gt;だいたい、近代文明が特に北半球で先に発展したことから、赤道付近の熱帯地域を「南」と認識しているのだろうけれど、南半球の国々から見れば、赤道付近の熱帯のリゾート地の島々は、「北の島」になってしまう。北の島というと、なんとなく千島列島やサハリン、グリーンランドなどという凍てついた島を想像してしまうのだが、オーストラリアやニュージーランド、それから南アフリカとか南アメリカの国々の人々は、我々が言う「南の島」のことを、どんなふうに呼んでいるのだろうか。&lt;br /&gt;南半球のひとにとっては、太陽は東から昇って西に沈むのは同じだけれど、正午には北の空に太陽がかかる。太陽の南中ではなくて北中というのだろうか。また、北向きの家は日当たりがいいことになるし、北辺の地というのは、暖かい豊かな地方のことを意味するのだろうかなどと考えると、なんだか感覚の逆転に眩暈がしそうになる。&lt;br /&gt;そういえば、南十字星というのも、我々は、南の島のシンボルのようにとらえていたけれど、北極星、つまりポーラースターが見えない南半球のひとにとってはどうなのだろう。我々が北極星で寒い北極の地やシロクマをイメージするように、彼らにとって南十字星は極寒の地の南極を象徴する星座になるのだろうか。ぜひ、南半球の住人に、「南の島」とか「南の国」「南向きの家」「北辺の地」「南十字星」などの言葉によってイメージされる感覚を、訊いてみたいと思う。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<title>写真の見方</title>
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<description>小学生だったか中学生だった頃、社会の先生が教科書に掲載されている写真についてこん...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;小学生だったか中学生だった頃、社会の先生が教科書に掲載されている写真についてこんな事をいっていたのを思い出した。&lt;br /&gt;「ここに写真がある意味を考えなさい。これだけの面積に文字を書けばずいぶんとたくさんのことを伝えることが出来ます。写真はその大きさに書かれる文章と同じかそれ以上のことを皆さんに伝えようとして掲げられているのだから、よく見て自分の頭で考えてその意味を読み取りなさい」&lt;br /&gt;いっていることがわからなかった。写真の横には、その写真が何を見せているかという解説文が記載されている。だから、その解説に沿わない写真の見方は、意図されたものではないはずだ。そこをあえて、写真の隅々まで見て本来の意図とは違う情報を探れと言うことなのだろうか、と疑問を感じた。&lt;br /&gt;たしかに写真そのものの情報量というのはすごい。よほどトリミングされたり加工されたりして、撮影者の意図以外の対象物が全く写っていないようなクローズアップ写真は別として、普通はその周辺部や背景部分に、実に様々な関係のない情報があふれている。&lt;br /&gt;たとえば、アフリカの内戦での悲惨な難民犠牲者を紹介した写真には、やせこけた少女が中央に大きく映し出されていた。しかし、その少女を抱きかかえる白人の手首にきらきらと光る高級そうな時計のベルトが見え、遠くには国連軍だろうか、かっこいい制服に身を包みベレー帽をかぶって立ち話をしている兵士の姿や、取材陣を取り巻いて見物しているのだろうか、たくさんの人影が写っているし、そのうしろには商店で買い物をしている人の姿も見える。&lt;br /&gt;解説文を読んでいると、街中がたいへんなことになっていて、いますぐにでも援助の手をさしのべないと次々と人々が死んでいく緊急事態のように感じられるけれど、実際はそんなものではない、ということが読み取れる。大変な状態である人もいれば、普通に過ごしている人も、我関せずと暮らす人も、外国から特権階級として現地に入り込んで、報道や治安に従事している人もいる。そうでないと、こんな写真を撮ること自体できなかったはずだ。&lt;br /&gt;そういう情報が読み取られることは、この写真を掲載した人の意図にはない。訴えようとしていることは、文章に述べられている。つまり、この場合、写真は筆者の主張する内容を補完するために使われている。だから普通は、文章による方向付けがなされた上で写真を見ることになる。それで初めて、写真に語らせようと意図したことが正しく伝わる。&lt;br /&gt;しかし、写真というのはどんな見方をされるか予想が付かない。どんなに受け手の視点をコントロールしようとしても、一旦提示された写真をどの様に見るかは受け手の自由だ。どんな見方をしようが文句をつけられる筋合いはない。ここにおもしろさがある。&lt;br /&gt;旅行やなにかの集まりなどのスナップ写真の背景に、写っていないはずのものが写っているように見えるといって騒ぎ立てたりする心霊写真は言うに及ばず、素晴らしい風景写真の中で遠くに立っている人影が立ち小便をしているように見えるとか、しゃれたオフィス街の写真に写ったビルの窓がまるであかんべをしている人間の顔のように見えるとか、記念撮影の背景の妙なところに矢印のような影が差して特定の人間を示しているように見えるだとかということは、ざらにある。&lt;br /&gt;そんなふうに写真の中に意図しない見当違いの事象を見たり、笑いを誘ったりする風景を発見して喜んだり楽しんだりしているうちは良い。本当に問題なのは、一定の思いこみやイデオロギー、主義主張や思想をバックに、なんの意味もなく記録された写真の風景の一部に特定の意味を見いだし、これ見よがしに提示して吹聴したり、もっともらしい理由付けをして、他人に影響を及ぼすような言動を展開したりすることだ。&lt;br /&gt;先に挙げた心霊写真などは、はなから非科学的な事象だとしてはねつけることが出来るから罪が軽い。始末が悪いのは、写真が撮られた意図を曲解し、写っている情景に悪意のある意味づけをして写真を撮影した人を糾弾したり、写っている情景とはなんの関係もない事柄に結びつけ、その証拠資料などとして流布したりすることだ。&lt;br /&gt;こういう使い方は、ある意味ではまさに、小学校の先生の「自分の頭で考えて写真の意味を読み取りなさい」という指導の究極の成果とも言えるものだと考えられないことはない。写された背景やストーリーを持たない写真はただの写真でしかない。自分の頭で考えて、意味を読み取れといったじゃないか、どの様に解釈しようが、使おうが全く問題は無いはずだろう、というのが彼らの言い分だろう。&lt;br /&gt;それでは、文章に写真が添えられた意味がなくなってしまう。ほんとうは、解説文と写真を良く見て、示された事実のリアリティを感じ取りなさい、と指導するべきだったのだ。一枚の写真には様々なノイズがあふれている。その中から的確な情報を選別する技術は、基本的に客観的なものでなければならない。断じて、ノイズの中から都合の良い情報を取り出し、曲解して利用し、自分の主義主張を正当化するというような、主観的なものであってはならないのだ。「自分の頭で考えて写真の意味を読み取りなさい」などという指導は、全共闘的イデオロギーに心酔した不良害毒教師の確信犯的なミスディレクションだ。&lt;br /&gt;しかし、写真は文章の単なる付属品ではないし補完部品でもない。それ自身で訴える情報を持った作品であることは、誰も否定できない。その情報伝達の方法が、言語や数式による論理的なものではなく、視覚に頼り、情感に訴えるものであるということに、このような意図的な誤用、悪用の原因がある。&lt;br /&gt;ビジュアルな媒体は、論理的思考を飛ばして直接感情に訴える。だから、「自分の頭で考えて写真の意味を読み取」らない人間は、ねじ曲げられた情報が与えられたとしてもわからない。ビジュアルな情報を操作して伝えたいことを誇張し、相手の意識にすり込むことはいとも簡単にできるし、現在のメディアがやっていることは、そういう操作そのものだといってもいい。&lt;br /&gt;写真を初めとするビジュアル媒体の情報は、うかつに信じるものではない。これは心に留め置いていいことだと思う。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<title>１月１８日の夢</title>
<link>http://skt48a.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_8c7c.html</link>
<description>町の図書館にいる。 とても古い木造の図書館で、いくつもの建物が短い渡り廊下でつな...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;町の図書館にいる。&lt;br /&gt;とても古い木造の図書館で、いくつもの建物が短い渡り廊下でつながっていて、部屋ごとに床の高さが違う。玄関を入って左手の階段をおりた部屋は、昔の木造の小学校の教室のような雰囲気で、ハードカバーの専門書や、雑誌類が並んでいた。それぞれの木の棚に垂直に10センチ四方くらいの板が取り付けられていて、そこに歴史、政治、経済、産業、自然科学、電気、生物、語学、などと見出しが付けられている。天井の梁からは鎖で蛍光灯がぶら下がっていて、薄暗く青い光が、部屋の中を照らしていた。&lt;br /&gt;受付の右側奥のくぼみになったコーナーには、古い百科事典類や、今はもう絶版になったような全集などが納められた棚があった。ほこりが積もって、インクのシミがある茶色い木の本棚がそのコーナーの三方を埋め尽くしていて、納められた本類は、表紙が汚れたりこすれて破けたりして、いかにも古書という感じがする本ばかりだった。&lt;br /&gt;そのなかから、写真集らしきものを取り出して開いてみたら、明治時代か大正時代の学校や会社の集合記念写真のように、たくさんの人が並んだ白黒の写真ばかりを集めたものだった。その髪型や服装が興味深かった。何かの社史とかそういうものから集めたものなのだろうか？　&lt;br /&gt;棚には様々な大きさと厚さの不揃いな大型本がぎっしりと並んでいる。煤けた濃い緑色の背表紙に貼られた長方形の青黒い長方形の短冊にくすんだ金文字で鐵道という文字が書かれているのが目に入ったので、思わず手にとった。ひらいてみると、これも白黒の古い時代の鐵道風景の写真と、蒸気機関車や鐵道施設の図面解説が細かく記された資料集のような本だった。このコーナーは、百科事典のような資料集に加えて、企業や役所の古い資料を集めて展示してあるところらしかった。&lt;br /&gt;コーナーを出て左側の短い渡り廊下を進んで階段を上り、本館の右隣になる建物の一段上がった部屋にいく。そこは文庫本や小説が中心に置かれていた。階段を上がりきって振り返ると、右正面とその奥の壁は、天井まで大きな本棚がしつらえられ、文庫本でぎっしりと埋めつくされていた。入りきらずにすきまに横に積まれているものもある。&lt;br /&gt;よく見ると、一般的な文学だけでなく、若者向けのノベルズや漫画に近いようなものまである。もちろん、シリーズすべてがそろっているわけではなさそうで、まるで古本屋からそのまま持ってきたような感じがする。本自体も端がめくれかえったりして、かなり傷んでいた。なかには、よくもまあこんなものまでと感心するような冊子もあって、若い人たちが棚の前に立って、本をとっかえひっかえしながら立ち読みしている。あっさり借りて帰ればいいのに、そうやって立ち読みするのが面白いらしい。&lt;br /&gt;部屋の中央にも胸のあたりまでの本棚がいくつも並んでいて、こちらはハードカバーの本が作家順に並べられていた。&lt;br /&gt;反対側には、白壁に大きく開いた窓から光が差し込む明るいスペースがあり、閲覧用の机がいくつか置かれている。窓のわきには胸の高さあたりまでのスタンドがあった。これも木造で濃いニスの色がいかにも時代がかって見える。その棚には、雑誌やペン立て、インク壺と羽ペンのセット、ペーパーナイフ、ブックエンドなどの文房具や書斎関係の小物が飾られていた。よくみると、それぞれに小さな値札が付いている。骨董品のように見えたのだが、これはみんなレプリカの売り物らしかった。&lt;br /&gt;そばに、模型雑誌が置かれていたので、ページを開くと、この街の模型店の広告が目に入った。ラジコンの飛行機やボートを専門に扱っているらしい。全国にチェーン店があって、その一番大きな支店のようだ。地図をみると、そんなに遠くはなさそうなので、帰りに車で寄ってみることにした。&lt;br /&gt;一緒に来ていた息子は、途中のスーパーマーケットに自転車を止めてあるのでそこでおろしてくれと言う。図書館から細い曲がりくねった道を何台もの車とすれ違いながら幹線道路に出、スーパーマーケットの駐車場の前までいった。駐車場は右手にあるので、右折しないと入れない。息子は、買い物をしていくからスーパーの玄関まで行っておろしてくれればいいというので、そうした。&lt;br /&gt;それから、信号を左折して、川沿いの幹線路に出たところで道がわからなくなった。仕方がないのでカーナビゲーターに頼ることにしたが、おぼろげにしかアクセス地図を覚えていないので、ナビゲーターに周辺の地図を表示させて、それらしい地形を探し回り、なんとか見当をつけて走り出した。しかし、どうしてもたどり着けない。ちょうど通りかかった子供達がいたので、その模型店の名前を告げて尋ねたら、知っているという。案内してあげるけど、ここからじゃ、道が複雑で車ではよくわからないので、カーナビを使って教えてあげる、という。&lt;br /&gt;彼は車に乗ってカーナビの前にすわると慣れた手つきで画面のタッチパネルを操作し、まるで実際の風景を見ているような画面を映し出した。この機能は全く知らなかったので、びっくりした。こんな機能、どんな風に操作すればいいのか全くわからない。&lt;br /&gt;私の困惑をよそに、彼は、どんどんと画面を切り替えて道筋を登録し、それから模型店のある通りの風景をまるでビデオを見るような映像で、私に見せ始めた。低い建物が舗装していない広い通りに沿って並んでいて、なんだか開発途上国の田舎の街の風景のように見える。&lt;br /&gt;「あ、ここから、もうちょっといって、この白いのが電気屋でそのとなりが反物屋、それからコンビニがあって、つぎの角だな。これね、この角の白っぽい建物がその模型屋さんだよ」といって指さしてくれたのは、四つ辻の角に面して、角がまるくなったコンクリート造りの白い二階建ての建物だった。なんだかちょっとアメリカの時代がかった感じの建物みたいだった。&lt;br /&gt;「なるほどね、じゃ、いっしょにいく？」といって、車を出したところで目が覚めた。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<dc:date>2007-01-18T18:48:02+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://skt48a.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_9f3a.html">
<title>人生いかに生きるべきか</title>
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<description>昔から、人生いかに生きるべきか、なんてことは考えたことがない。 自分の今目の前に...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;昔から、人生いかに生きるべきか、なんてことは考えたことがない。&lt;br /&gt;自分の今目の前にある人生に真剣に向き合って生きていれば、そんなことを考えている暇などない。そんなことではいけない、などというのは、人生を真剣に生きていないか、そうする必要や欲求の無い人間のいうことだ。&lt;br /&gt;だいたい、人生いかに生きるべきかなんて人生論議を、したり顔に語る人種というのは、いい加減功成り名を遂げてまださらに自分の価値を世間にアピールしたくてたまらない自意識過剰の中高年や老年か、それなりにがんばったかがんばらなかったかは知らないけれど人生のゲームに敗れるか逃げるかして後悔と不満の念やるかたならず、その無念さを濯ぐための自己正当化を目指して後進や若手に説教を垂れるこれまた中高年や老年か、もしくは若くしておのれの人生に真剣に向き合わず、知識と情報ばかりを頭に詰め込みモラトリアムのぬるま湯の中でおのれの逃げと先送りの姿勢を正当化することに傾倒するような腰抜けか役立たず、または人生の敗残者予備軍とでもいうような人間のどれかに違いない。&lt;br /&gt;その証拠に、いい歳をしたおっさん連中が、独立独歩の誇りもおのれのふがいなさへの反省も個人としての尊厳もなく孤独に耐えられず無為に群れ集まり、傷を舐め合うのか腹を探りあうのか、あいもかわらぬ酒の席で、当たらず障らずの飲む打つ買うの話題に飽き、酔いも手伝って、知己の人間関係という警戒心のゆるみが前面に出てきたときに、一番の主題となるのがこの人生論議とこれに関した後輩、若手への説教だ。&lt;br /&gt;そのしつこさ、くどさは尋常一様ではない。独断的な人生論議を得意げに語る酒に酔った赤ら顔のなんと醜く歪んでいることか。呆け者の痴態とでも言うしかないその行状は、見るに堪えないものではあるが、本人はいっこうにおのれの姿のみっともなさに気付かず、滔々と回らぬ舌で同じ事を何度も何度も繰り返す。その様は、滑稽を越えて、哀れを誘うほどのものになる。&lt;br /&gt;さらには、その論議はかたくなで稚拙な持論の展開に終始し、聞く耳を持たず、ひたすら牽強付会、相手の話の一部分をことさらに切り取って、その話の根本には俺が指摘した問題が潜んでいる、と自分のペースに引き込むことに全身全霊を傾けて口角泡を飛ばし、頑固な意地の張り合いの、堂々巡りの議論が延々と続く。&lt;br /&gt;いったいこれはどうしたことか。ここまで人間というものは、愚昧で無明になるものであるのかと、感心感嘆するしかない。しかし彼らには彼らなりに、そこまで取るに足らない自己の存在に執着してその生き方を正当化しなければならない必然性があるのに違いない。きっとそれは、自分自身の不本意さをいくらかでも薄めたい、解消したいという願望の一つの現れ、表現手段となっているのだろう。せいいっぱい暖かく好意的に彼らの行状を解釈しても、その程度にしか言い表せない。&lt;br /&gt;人間とはいかに、いいわけがましいものか、また、功成り名を遂げた上に置いてもなんとあさましく他人からの賛美をむさぼろうとするものか。すべては人の感情のなせるわざ、心の弱さのなせるわざということは易しい。しかし現実に、人生論議に名を借りた独断的で自己賛美的なありきたりで無意味な教訓を聞かされ、さらにおのれの意に添う様な反応と賞賛を強要されるに至っては、その当人に軽蔑と憐憫以外の感情を抱けないのもまた真実である。&lt;br /&gt;いま、自分はその中高年のまっただ中、初老の入り口の年代にいる。一滴も呑まないが故に、しらふの頭でこの酒の席での醜態の一部始終を忍耐とともに観察する。自分自身もいつこのようになることか。心の奥底に隠匿した捻れた精神の酒による解放という手段、習慣を持たない自分としては、彼らの行状をうらやましく感じることもある。しかし、それは、自分にとって本当に必要なことなのかはわからない。自分の精神のことは自分にはきっとわからないことなのだろう。&lt;br /&gt;すくなくとも、自分には、人生いかに生きるべきか、などという浮ついた浅薄な人生論議をする理由も動機も欲求も必要性も無い。それだけはたしかだ。ただ、いま向き合っている人生を真剣に生きていくのに精一杯だと言えば、くだらぬ不毛な人生論議を何よりも尊しとする人種の餌食になることは目に見えている。だから、心を押し殺して相づちを打ち、ご教訓ご託言をありがたく拝聴することにしている。彼らの執拗で狂信的かつ頑迷な攻撃をかわすにはこれに勝る方策はない。&lt;br /&gt;人生に対して、自分が求めるものを得意げに人に話して何になる。ただの自己満足と独善の押し売りでしかないではないか。&lt;br /&gt;人生論を声高に語る者、他人にその重要性を得意げに説く者など、相手にする必要はない。ただ、こちらの人生に害毒を流し込まれないように、賢く捌いて受け流す方法を学ぶことだ。それが自分自身の人生を本当に大事にし、自分の納得のいくように人生を生きていくことにつながると思っている。&lt;br /&gt;人生いかに生きるべきか、などという不毛でお節介な論議はそれこそ「くそくらえ」である。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<dc:date>2007-01-17T18:11:26+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://skt48a.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/116_e453.html">
<title>1月16日の夢</title>
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<description>午後もまだ早いのに、天気が崩れて雨がぱらついていた。模型仲間のミーティングの帰り...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;午後もまだ早いのに、天気が崩れて雨がぱらついていた。模型仲間のミーティングの帰りに、私鉄の駅を降りたところで、2，3人の仲間と話し込んでいたら、小柄な中年のおばさんが話しかけてきた。あれ、とおもって顔をみたら、中学か高校のときの同級生だった。&lt;br /&gt;びっくりしたような顔をして、大きく目を見開き、「あなた、○○くんでしょ。そうじゃないかなと思って。ここでなにをしているの？」、と言う。&lt;br /&gt;驚いたのはこちらの方だ。関西出身の人間が東京の郊外の駅で、それも卒業して何十年もたってから偶然に出会うなんて事はそうあることではない。&lt;br /&gt;「こっちで就職して、今、○○に住んでるんだよ。今日は趣味の集まりで、ここにいるのはその友達。○○さんこそ、いったいこんなとこでどうしたの？」と訊くと、「私も、結婚して○○県で暮らしてたんだけど、ちょっと前にこの近くに家を建てて越してきたのよ」という。&lt;br /&gt;「へえ、全然知らなかったな。同窓生とは年賀状もやりとりしてないし。しかし、よく僕ってわかったねえ」というと、彼女は呆れたような顔をして、「学生時代の雰囲気そのままだもの。そのうっとおしい髪型とあか抜けないスタイル、何とかならないの？」と言ってのけた。ほっといてくれ。&lt;br /&gt;「それはそうと、雨降ってきたし、時間があるならその人達と、ちょっとうちに寄っていかない？」&lt;br /&gt;「いきなりおじゃまなんか出来ないよ。旦那さんも家にいるんでしょ。」&lt;br /&gt;「いいからいいから、その人達も一緒にどうぞ。旦那は今外出中のはずだから、気を遣わないで」&lt;br /&gt;どうやら、新築の家を見せて自慢したいらしい。それなら、と仲間と相談して、厚かましくおじゃまさせてもらうことにした。もちろん、駅のそばの洋菓子店で、自分たちの食い扶持のケーキは買って行くことにした。&lt;br /&gt;家は、駅から坂を下りてしばらく行った住宅街の中にあった。古い住宅街なのだが、人口減少と老齢化の影響からか、入れ替わりが激しくて、あちこちリフォームされたり建て替えられてまっさらになった家が目立つ。すぐそばに公園があるので開放感があって明るいけれど、起伏が多い地形なので、その地形を利用して半地下にしたり高い石垣にせり出すように建てられた家が並んでいた。&lt;br /&gt;彼女の家は、坂を下りきった公園のすぐ前の角地にあった。家の外見は昔一時はやったことのあるコンクリートの打ちっ放しだ。曲がり角が玄関になっていて、玄関のドアまではかなりの高さの階段を上らなければならない。中二階が玄関になっているような造りなのだろうか。ドアは重厚な広葉樹の凝った造りだった。&lt;br /&gt;中にはいると、せまい玄関フロアがあって、その奥に、3つ部屋がカギの字型に並んでいた。玄関のフロアは濃い色の板張りに真っ白なクロス張りの壁なのに、その3つの部屋は純和風で、畳敷きに総檜の造作と聚楽塗の壁が目立つ。窓は綺麗な意匠の指物細工をあしらった障子がはめ込まれていて、外観からはなんとなく想像が出来ない家の造りだった。&lt;br /&gt;その部屋でコートを脱いで、ハンガーにかけてから、リビングの方へ案内された。リビングとダイニングは離れのようになっていて、廊下をとおっていく。その廊下はこれもコンクリートの打ち放しで、床も壁も天井も曲線で構成されていて、まるでコンクリートの洞窟か土管のようだった。ところどころに、まるい窓が開いていて分厚い磨りガラスがはめ込まれている。これが明かり取りになっていて、廊下はとても明るい。このデザインにはちょっと感心した。&lt;br /&gt;途中で右方向にすこし狭いトンネルのような通路があったので入ってみたが、そこは行き止まりになっていた。ただ、天井の部分は大きく開いて曲面になったガラスがはめ込まれて明かり取りを兼ねているらしい。窓の外には植物が覆い被さっているのが見えた。どうやら、その通路は庭の地下に位置しているようだ。建物の上に庭を造っているのだろうか。妙な構造で、このあたりでもう、建物と部屋の位置関係がよくわからなくなった。&lt;br /&gt;「すごい変わった家だね。建築家にたのんだの？」と訊くと、彼女は「そう、この地形がおもしろいからって、ずいぶんと凝っていろんな実験的な設計をしてくれたみたいよ。住んでて飽きないわよ。どこに何があるか、毎回驚かされるような気分で、結構気に入っているんだけど」と答えた。&lt;br /&gt;リビングも、コンクリートの打ち放しに、黒い鋳物の手すりが巡らされたしゃれた空間だった。白木の天板に細くて黒い鋳物の足を組み合わせた簡素なテーブルと椅子が無造作に置かれていて、なかなか現代的ないい雰囲気を醸し出している。&lt;br /&gt;余り広くはなかったが、その奥にダイニングとキッチンのスペースが細長く続いている。そこでお茶にするのかと思ったが、そうではなくて、この下にも部屋があるので、そこでケーキをいただきましょう、と言う。どうやらその部屋が自慢らしい。&lt;br /&gt;どこから降りていくのかと思ったら、リビングの端っこにあるポトスの植え込みの影に、同じように複雑な曲線文様をあしらった黒い鋳物の手すりがあった。そこから、螺旋階段で、地下の部屋に下りていくらしい。螺旋階段は、凝った鋳物製で、足下が透けて見える。地下の部屋の床は、いろんな色の玉石のようなタイルが敷き詰められた、まるで前衛の美術館にあるような部屋だった。&lt;br /&gt;床に降りたって廻りを見回すと、そこは正確には地下室ではなくて、半地下といっていいところだった。天井と壁の間に隙間が空いて、そこから光が差し込んでくる。大きさは思ったより広くて、幅4メートル奥行き8メートルくらいある。こんな大きな部屋を何に使うのかとおもったが、自由にいろんなものを置いたりくつろいだりする庭として使うというコンセプトらしい。不思議な考え方だが、天井近くから差し込んでくる光の加減が、独特の陰影をつくって、なんとなく安らぎを与えてくれる。ちょっといいものを見せてもらったような気分になった。&lt;br /&gt;一緒に来た模型仲間達は、この空間を見て、ここに模型鉄道のレイアウトを敷いたらたのしいだろうなあ、などと話している。何を見ても鉄道模型に結びつけてしまうのだから始末が悪い。こまったものだ。しかし自分も同じようなものかと思いながら、目を覚ました。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<dc:date>2007-01-16T18:32:12+09:00</dc:date>
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<title>寒さ対策</title>
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<description>今朝は今年一番の冷え込みだという。たしかに昨日の日曜からの寒さは尋常ではなかった...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;今朝は今年一番の冷え込みだという。たしかに昨日の日曜からの寒さは尋常ではなかった。&lt;br /&gt;もともと寒さには弱いので、朝風呂に入って体をあたため、何とか一日の滑り出しをと思ったけれど、結局はカーペットの虫になって、10時過ぎまでごろごろ。お昼前になって、やっと近くの公園までラジコンボートを浮かべに行った。&lt;br /&gt;昼間は日差しがあって少しは暖かく感じるけれど、風が冷たい。ボートの充電池も気温のせいだろうか、すぐにへたってしまって、スピードボートのはずがのろのろと走る貨物船のようで、とんがったスタイルと速度のミスマッチが情けなくてたまらなかった。&lt;br /&gt;北海道に住んでいたときは、この季節は完全に外は雪の中。真っ白の世界で、それなりに美しかったし、寒さも覚悟が出来ていたからだろうか、それほどにも感じなかったように思う。就職して最初に入った寮の風呂が壊れて銭湯に通ったときは、帰りにタオルを振り回すとあっというまに凍り付いて棒のようになってしまったものだった。それでも寒いとは感じなかったのに、最近やたらと体が冷えるのは、やはり年齢のせいだろうか。&lt;br /&gt;若い頃は筋肉量が多くて、基礎代謝量が多いので、体からの発熱が大きくて寒さにも強い。だから、いくらでも食べられるし、食べても太らない。歳を取ると生理的に基礎代謝量が減少するので体からの発熱が押さえられる。加えて食事の量はあまり減らないのに、贅沢な食事をすることが出来るようになるので、その分が皮下脂肪に回って太り出す。皮下脂肪が断熱材として機能すればそれでいいように思うのだが、寒さを感じる感覚神経は皮膚表面にあるから、結局寒いと感じる事には変わりないし、皮下脂肪のおかげで皮膚表面近くの毛細血管も萎縮しているから、よけいに手足の冷えが起こるようになる。&lt;br /&gt;人間の体って、良くできているように見えて、あんまり合理的ではない。これが、むかしのように暖房機器や暖かい衣類が発達していない環境だったら、体の方が適応して、もっと寒さにも強くなっていたかもしれない。が、子供の頃は、しもやけとかあかぎれ、ひびなど、寒さに起因する皮膚障害が結構普通にあった。それを当たり前と感じるかどうかの差なのだろう。&lt;br /&gt;だからといって、昔のように我慢大会的な生活がいいとはおもわない。北海道にいた頃には、部屋の中はストーブを焚いてほんとうに暖かだった。シャツ一枚で外の雪を見ながら、冷えたビールのジョッキを傾け、アイスクリームを食べるようなことだって、不自然ではなかった。外に出るときは、Tシャツの上に厚いキルティングやダウンのオーバーコートやパーカを着て、それで快適に外を歩いていたように記憶している。長時間になると手や足先の冷たさは感じたけれど、それもそんなに気にはならなかったし、暖かい部屋に帰るとすぐに回復した。体が低温の環境に適応していたのかもしれない。そういえば、今の生活に比べて、相対的に体を動かしていることが多かったようにも思う。場合によっては30度を超える屋内と外の温度差が、代謝を促進する効果もあったのだろうか。&lt;br /&gt;それにくらべて、今住んでいる地方の生活様式は、家の中自体の温度が低い。必然的に部屋の中でもこたつに潜ったり、厚着をしたりして、じっとしていることが多く、相対的に運動量が少なくなっている。その上、外気温との差がせいぜい15度くらいのものだから、体が低温の環境に適応するには、インパクトが足りないのかもしれない。&lt;br /&gt;昨日など、からだが冷え切るたびに、沸かした風呂に飛び込んで、なんとか体を温めていたつもりだったが、上がってすぐはよいものの、しばらくするとかえって冷えがおそってくる。特におなかのあたりの冷えは顕著で、3回目に風呂のあと、なんとおなかの調子がおかしくなったのには往生した。いったいどうなっているのだ。&lt;br /&gt;とにかく、これから2月にかけて、一番寒い時期になる。こまったものだ。からだの外から暖めるのではなく。なんとか体内の基礎代謝を向上させて、内側から温まるような体になるような工夫は無いものだろうか。&lt;br /&gt;とりあえずは、低い外気温の中で運動することだろう。しかし、この年齢になると強度の運動などやれるわけがない。ここのところ続けている昼休みの30分ウオーキングを早足で続けるのが一番手っ取り早いかもしれない。&lt;br /&gt;とにかく、じっとして暖かいものを食べたり飲んだりする方法では、この寒さに抵抗する事はむずかしい。動き回ることが大事なのだ。とはわかっているのだが、今の仕事は室内での事務処理がほとんどだ。これはもう、拷問に近い。なんとかこの束縛の中で運動量を稼ぐ方法を考えないといけないと真剣に思っている。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<dc:date>2007-01-15T18:47:23+09:00</dc:date>
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<title>ものを手に入れるのに費やす時間</title>
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<description>ものを買うのに、とても時間がかかる。コンビニに昼食のサンドイッチを買いにいっても...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;ものを買うのに、とても時間がかかる。コンビニに昼食のサンドイッチを買いにいっても、すべての種類を見比べ、値段を見比べて自分のおなかのすき具合を考慮して、棚の前で沈思黙考する。&lt;br /&gt;カツサンドは論外。これは自分の容量と好みを完全に逸脱している。こんなもんたべるなんて、どんな野蛮なやつなんだろう。今日はハムタマゴチーズサンドにしたいな。けど、これだとすこしおなかにもたれそうだ。だからといってシャキシャキレタスサンドにしたら、これはちょっとカロリーが足りなくてあとで何かお菓子を食べたくなってしまうだろうしなあ。卵サンドと合わせわざと言う選択もあるな。&lt;br /&gt;けど、２つ食べると完全に容量オーバーだしなあ。卵サンドって一見軽く見えるけれど、結構油っぽいんだよなあ。あれはよくない。ポテトサラダサンドがあるぞ、これは一見ヘルシーみえるけれど、わりにボリューム感があるんだよな。それに、前に食べたときは、なんだか酸っぱくておいしくなかったし、あとから妙に腹にもたれてこまったしなあ。&lt;br /&gt;お、なんだ、フルーツクリームサンドだって？　これは初めてだなあ。イチゴとキウイとパインと生クリームのサンドって、まるでお菓子みたいだな。え？３００円もするの？　高い！　こんなお菓子みたいなもんで、この値段は絶対に高い。でもいちど試してみようかな。そのかわり、飲み物はパスして、緑茶で我慢することにしよう。でもなあ、味はどうかなあ。クリームとフルーツの味のバランスはどんなもんだろう。クリームがあんまり良くなかったら油っぽくてあとで胃にもたれるんじゃないかな。それに、こんなお菓子みたいなものを昼食にしたら、栄養バランスが崩れそうかな。でも、いちどは試してみたいなあ。まあ、いいか、ええい、清水の舞台から飛び降りた気持ちで初挑戦だ。&lt;br /&gt;などと、いろいろと熟考の末にやっと一つサンドイッチを取るまでの時間が、だいたい５分から１０分くらいはあるように思う。皆さんを見ていると、棚の前にいる時間はせいぜい１２、３秒くらいで、さっと迷わず決めておにぎりやサンドイッチやお寿司やお弁当などを手に取っていく。あれは、どういう神経なのだろう。コンビニの扉を開けて入ってくるときから、これと決めた食べ物を心の中に持って棚に突進してくるとしか思えない。あんなふうに買物が出来るというのは、脇目も振らずというか、シャーロックホームズの映画で見た様な辻馬車の馬のように目の横に板みたいな目隠しをされて、前だけ見て走って暮らしているようなものではないかとさえ思う。&lt;br /&gt;だいたい、コンビニで食べ物を選ぶ場合に限らず、どんなものでもそれがどんなものなのか、手に取って試してみたり、試食してみることが出来ない場合は特に、こうやって迷う時間が長くなる。食べ物の場合はまだいい。家具や電気製品などの耐久消費財や、趣味関係のものに至っては、その時間は膨大というか、自分でもあきれてしまうくらいのものになる。実際にそれを手に入れたときの使い勝手や満足度、はては収納場所や使う回数まで考える。&lt;br /&gt;趣味の模型工作関係の道具やキットなどの場合、昔は雑誌の広告やカタログを穴のあくほど眺め、その製品の写真から、構造や使い方まで想像し、最後はほとんど頭の中に立体映像モデルが出来上がって、自由にいろんな方向から眺め回したり、分解して部品を取り出したり、内部の構造を透視することさえ出来るくらいになっていたものだ。でも、どういうわけか、実際にお店に行って、店員に質問してその製品の情報を訊いたりすることは少なかった。実際にその製品が店頭にあって、触らせてもらえる場合や、非常に趣味的な店員がいる場合は別だが、そうでない場合は、生半可な店員では知識が無いことの方が多いから、返って煩わしかったりもするからだ。&lt;br /&gt;最近はインターネットで通信販売を利用することが多くなったせいもあって、丁寧に検索すると実にいろんな情報が手に入る。だから、迷う時間が少なくなったかと言えばそうではない。返って長くなった。情報を仕入れてそれを吟味し、迷うこと自体が自己目的化してしまっているようにさえ思えることもある。それが楽しみの一部かと言われると、そうではない様な気がするのだけれど、飽きずに通販ページの写真や解説を眺め、その製品の評価や評判のページを検索して読みふけり、それでもわからないところは、その筋の掲示板に質問したりして、いっこうに購入というステップに進まないまま、時間だけがどんどんと過ぎていく。&lt;br /&gt;そうやって、その製品をほとんど知り尽くした後でも、実際に現実世界の店頭で実物を見る機会があったら、またおなじように、コンビニのサンドイッチの棚の前で迷うように、手を伸ばしかけては引っ込めて、延々と逡巡することになる。&lt;br /&gt;最近になって、やっと、自分はこの逡巡を楽しんでいるのではないかということに気がついた。というのは、さんざん検討し、逡巡した上で手に入れた製品を、長らく放ったらかしにしておくことがおおいのだ。通販から届いたり、店で買って家に持ち帰った品物は一応は封を切って中身を確かめる。でも、そのあと、模型キットや材料であっても、工具であっても、そのまましまい込んで何ヶ月も立つということがざらなのだ。酷い場合は１年、２年そのまま手つかずで置いてあるという場合だってある。だからといって、手に入れることだけが目的で、手に入れてしまったらもう満足して、なにもしないというわけではない。１年、２年後に急に思い立って、引っ張りだし、いじり回したり組み立てだしたりすることが当たり前になっている。&lt;br /&gt;つまり、自分に取って本当に欲しいもの必要なものを選別するのにものすごい時間をかけただけ、手に入れた後同じだけ寝かせていても平気になっているのかもしれない。趣味嗜好のものの場合は特にそうなのだろうけれど、時間をかけて決断したものは、必要としなくなるまでの時間、飽きるまでの時間が長いという関係にあるのだろう。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<dc:date>2007-01-14T11:14:25+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://skt48a.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/2_fabe.html">
<title>2人の石切り職人</title>
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<description>あるコラムで「2人の石切り職人」という寓話が紹介されていた。 教会の建設現場に2...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;あるコラムで「2人の石切り職人」という寓話が紹介されていた。&lt;br /&gt;教会の建設現場に2人の石切り職人が働いていた。旅人が1人の石切り職人に、あなたは何をやっているのか、と聞いた。すると、「俺はこのいまいましい石を切るために悪戦苦闘しているんだ」という答えが返ってきた。もう1人の石切り職人に同じことを聞くと、2人目の男は目を輝かせて「私は人々の心の安らぎの場となる素晴らしい教会を作っているんです」と言ったという。&lt;br /&gt;コラムの筆者はこの寓話によって、同じ仕事をしていても、その彼方に何を見ているかが全然違う、モチベーションの持ち方とモラールが大事だ、と結論している。つまり、考え方次第で、どんなつらい仕事でも、苦労と感じることなど無く、誇りを持っていそしむことが出来る、そうならなければならない、そうなることが理想なのだ、と諭している。&lt;br /&gt;なかなか良くできた話のように思えるかもしれない。しかし、これは、経営者や使用者に都合良く構成された、底の浅い稚拙な精神訓話だ。この話の底に流れる考え方は、仕事を合理的、効率的に実行し、最大の成果が期待できるように改善していく上で、もっとも大事なことを意図的に排除している。&lt;br /&gt;真に必要な技術の開発や仕事のやり方の改善を考えないで、ひたすら働く者のモチベーションの持ち方と根性、モラールに期待するというのでは、理屈も何もあったものではない。こんな話をまじめな顔で滔々と社員に説く経営者がいたら、その会社の将来は無い。&lt;br /&gt;本当に仕事を効率的、合理的に、そして楽に行おうとするのなら、問題点をしっかりと把握、分析し、その対応策を考えていかなければならない。少なくとも能力のある技術屋や現実主義者（リアリスト）はそう考える。&lt;br /&gt;だから、技術者の目、リアリストの目からは、引用した寓話の中でより需要なのは、最初の職人の答えの方だ。もっと速く正確に石を切る道具を採用したり新たな技術を開発すること、またはこの職人を教育して技術に習熟させることが、より楽により速く、人々の心の安らぎの場となる素晴らしい教会を建設することにつながると考える。&lt;br /&gt;また、二人目の職人が、一人目の職人と同程度の技量の持ち主だとするならば、彼は仕事の改善や成果の向上には役立たない無価値かつ無能な人間だ。自分のやっている仕事の質や方法のまずさ、問題点を顧みず、ただその目的が崇高なものであるからと言う理由だけで、能率の悪さ、技術の稚拙さに目をつぶり、宗教的幸福感の中で苦行をする人間のように、疑問を持つこともなく危険でつらい仕事に従事するというのは、ばかげているとしか言いようがない。&lt;br /&gt;だが、現在の職場でも往々にしてこのような教訓話が横行している。特に経営者向けのビジネス雑誌などでは、こういうタイプの論法が普通に見られる。そこには、客観的に現場を見、問題点を洗い出し、質的、量的に具体的な計量と分析を行って、冷静かつ合理的に問題解決の方法を探るという姿勢が根本的に欠如している。&lt;br /&gt;製造業、小売業、サービス業、すべての現場では、もっと現実的かつ実質的な技術的対応がなされているはずだ。そこでは、具体的な技法、処理テクニックの情報伝達と改善が、効率良く適切に仕事を遂行する基本となっている。その基礎の上に、仕事に対するモチベーションやモラールというものが加わって、初めて最大の効果を期待することが出来る。&lt;br /&gt;いや、別に働く人間にモチベーションやモラールなど無くても、求められる仕事に対応した技術が極限まで発達し手順が確立されていれば、こんな精神論を加味する必要なしに、一定水準以上の成果が期待できるはずだ。そこに、感動とか満足とか、感情的な要素を求めなければの話だが。&lt;br /&gt;だから、現場の現実的な問題の提起を不平不満ととらえて却下し、働くもののモチベーションやモラールを必要以上に持ち上げるような精神論は、合理的科学的な観点からは有害無益でしかない。けれどもそれを認め、現実主義者的な立場から仕事を見つめ改善していくことはなかなか難しい。&lt;br /&gt;人というのは感情的な動物なのだ。現実を直視するよりも理想にあこがれる。一つずつ問題を分析し、地道な改善をする努力の代わりに、精神的なよりどころやまがいものの救いを求め、目の前の困難や苦労を忘れようとする。そこを利用して、指導者、経営者は美しい精神論を展開し、優位に立って社員や部下、民衆を誘導し、思うように働かせたり動かしたりする。技術屋的性格を持つリアリストには、出来ないわざだ。&lt;br /&gt;ある意味で、これもまた一つの技術、アートなのだろう。善し悪しは別にして、客観的に評価してよい技術であると思う。しかし、願わくば、そういう技術に長けた人間とは関わり合いたくないと思う。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<dc:date>2007-01-13T18:24:23+09:00</dc:date>
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<title>１月１２日の夢</title>
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<description>植物関係のレポートをまとめているらしい。 この間行ってきた実習で採取して新聞紙の...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;植物関係のレポートをまとめているらしい。&lt;br /&gt;この間行ってきた実習で採取して新聞紙の間に挟んであった標本を開いて取り出し、観察しながら、その植物に関係する記述を書いていく。&lt;br /&gt;一旦乾燥した標本は、必要な部分を折り取って、シャーレに入れ、お湯をかけてふやかしてから、良くとぎすました細いピンセットと針で組織を壊さないように開いて実態顕微鏡で花芽の構造などを調べる。そうやって、写真を撮ったり、スケッチをしたりして、特徴を書き留め、種を同定する作業をするのだ。そんな作業をする傍ら、この植物に関する一般向けのお話も書かなければならないので、ちょっと憂鬱だった。&lt;br /&gt;論文ではなくて、一般向けなので、どの様に書けばいいのか見当が付かない。あちこちの雑誌の記事を参照しながら、普通の人にも興味のありそうなエピソードを付け加えながら文章をまとめていくのだが、なかなか思うようには話が展開していかないのだ。&lt;br /&gt;ある高齢の植物採集家の雑誌連載記事が非常に博識で面白かったので、この記事を参考にして文章をまとめ始めたが、手元には必要なバックナンバーがない。困って、雑誌の目次と筆者紹介の欄をみると、なんと、その植物採集家は、現在自分のいる組織の研究部門の顧問として働いていることがわかった。これは直接会って、いろいろとご教示願うに越したことはない。さっそく、尋ねてみることにした。&lt;br /&gt;今いる本館は東西に長い南向きの5階建ての建物で、3階の西端にあるわたり廊下で彼のいる南北に長い新館のちょうど真ん中あたりにつながっている。渡り廊下の下が、新館の入り口になっていたはずだ。彼のいる部屋はその北端の一階にあった。&lt;br /&gt;新館は、本館と違って、近代風でまるでビジネスオフィスのような雰囲気だったが、一歩部屋にはいると、そこはやっぱり雑然と書類棚や机が置かれ、文献や標本が所狭しとならんで散らかっていた。外からは綺麗に見えたのに、部屋の中は煉瓦造りの本館とおなじように、天井には冷暖房や電気配線、ガス配管のパイプやダクト類がむき出しになっていて、ほこりが厚く積もっている。いまは冬の朝も早い時間なので、暖房が温まるにしたがって、配管が伸びて断続的にハンマーで叩くような高い金属音をたてる。&lt;br /&gt;「誰かいませんか」と声をかけると、古ぼけて乱れた書類が乱雑に詰め込まれた書棚の裏から、白髪の小柄なじいさんが出てきた。「おお、待ってたよ。言ってた雑誌は出しといたけど、これが役に立つとはうれしいねえ」、と相好をくずしてうすいピンク色の風呂敷につつんだ5冊ほどの雑誌を手渡してくれた。&lt;br /&gt;おもわず、恐縮して礼をいって、風呂敷包みをうけとり、中をひらくと紙が焼けて茶色くなった雑誌が5冊、表紙にはレトロなタッチの植物画が描かれ、その上にアルファベットで題名が重なるように印刷されていた。&lt;br /&gt;あれ、これは日本の雑誌じゃなかったのかな、と顔をあげると、じいさんはにやにやしながら、「これが、原本じゃよ。インドネシア語。あんたが読んだ日本語版は、誰かがプライベートに翻訳して、私費出版したものらしいな」という。&lt;br /&gt;それで冊子がそろっていなかったし、記事の文章もなんだか変に感じたのだなと、今頃になって気付いた。それでも、内容はとても貴重なものだったし、ぜひとも引用をさせてもらいたいところもある。でも、インドネシア語は、なんとかおぼろげに覚えているだけで、こんな文書を読む能力はないので、途方に暮れてしまった。&lt;br /&gt;「読めんとな。勉強不足じゃのう」といわれて、恥じ入ってしまったら、じいさんは、「本館の方に、確か翻訳機があったはずだから、そちらに一緒に行って、翻訳してもらうかね？　この本もそろそろ電子化しておかないと、傷んでだめになってしまうから、気になってたところだったのじゃわ」と言って、雑誌をまたピンクの風呂敷に包み直し、さっさと部屋を出て、本館のほうに歩き始めた。自分はあわてて後を追う。&lt;br /&gt;本館へは、渡り廊下を通らずに新館の玄関をでてから花壇の横をとおり、わざわざ本館の中央にある玄関から入った。いつもこうするのだという。渡り廊下を使うなどと言うのは、由緒ある煉瓦造りの本館に対して失礼だというのだ。なんだか時代錯誤な感覚のじいさんだと思ったけれど、それなりに譲れない感覚があるのだな、と後ろ姿をみながらそう思った。&lt;br /&gt;書籍の電子化と翻訳は、本館の地下図書館の付属施設として設けられている。地下に降りるにはエレベーターを使う。エレベーターの扉は真っ黒で、内側はつや消しの濃い緑色に塗られていた。地下の図書館の壁も全体に緑色の色調でまとめられている。エレベーターを出ると、どこかのIT産業会社の受付みたいに現代風のガラスの仕切りの後ろに受け付けデスクがあって、そこに黒人のでかいおばさんがむっつり顔ですわっていた。彼女が司書らしい。&lt;br /&gt;じいさんは、なにやらスワヒリ語らしい言葉で彼女に挨拶すると彼女の機嫌が急に良くなる。いろいろと人間関係がむずかしいらしい。それから、じいさんは、私にペンを渡して、黒人のおばさんの指示にしたがって手続きをするようにいって、すたすたと図書館の奥に入っていってしまった。&lt;br /&gt;書類を見ると、これが全くわからない言語で書かれている。どこに何を書き込めばいいのかさっぱりわからない。前にはおばさんが怖い顔で、待っている。どうしたらいいのか困ってしまったところで目が覚めた。&lt;/p&gt;</content:encoded>



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<dc:date>2007-01-12T18:17:14+09:00</dc:date>
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