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2007年2月22日 (木)

リアリストと創造的な思考

自分はリアリスト、現実主義者だと思っている。
ある自己啓発セミナーで、こういうゲームがあった。このゲームは、静かな叙情的なバックグラウンドミュージックが流れる、明かりを落とした暗い部屋で行われた。ゲームのルールはこういうものだった。
「あなたは沈みかかっている客船の乗客の一人だが、乗客全員が乗り込むには救命ボートの数が足りない。そこで、全員が集まって救命ボートに乗る人を決める会議を開きました。どの様な選出の仕方をするか意見を述べるか、自分がボートに乗る権利を認めさせるために、どうしても生き残らなければならない理由を説明して説得するか、ひとりでもたくさんの人を助けるために自己犠牲を進める意見を述べるかしてください。全員目を閉じてこの話し合いをします。意見を言う人は手を挙げてください。スタッフが肩に手をかけますから、立ち上がって話してください。そして、その意見に対して賛同したり反対したりする意見を同じように自由に発言してください。やりかたは同じです」
このゲームの意図は、ぎりぎりの選択を迫られた状態での自分の考えを素直に出して、どこまで皆の賛同を得られるかや、人々の葛藤や意見の食い違いのなかから人間性や社会性や理性や感情の意味を感じること、であったらしい。
実にさまざまな意見が出た。相手が見えない中で順序よく次々と意見が述べられていく演出はたいしたものでそれなりの効果はあるように感じた。
自分は、このゲームのなかで、立ち上がってこう発言した。
「沈むのにいくらも時間がないというのに、こんなところで延々と議論している暇なんかありません。船の中には探せば水に浮く木材などがあるはずです。それで筏でも造ればいい。わたしはこれからそれを探しに行きます。ついてくる人はいますか?」
数人の賛同者が現れた。が、そこでゲームは中断となった。このゲームを指導していた講師は、
「あなたのやったことは、ルール違反で、ゲームを台無しにするものだ。このゲームではそういうことが求められているのではない。あなたのような考え方は、皆が一つのことに真剣に取り組んでいる雰囲気に水を差す。迷惑になる。よく自分の行動を考え直せ」
と言った。
あまりのばかばかしさに、一気にその自己啓発セミナーと講師への信頼感が薄らいだ。もっとも最初からあまり信用はしていなかったけれど。
このゲームの設定のような非合理で非現実的な状況は最初から破綻している。そのことに目をつぶったままもっともらしく議論を続けるのは、本当にそれを現実の状況とした場合は、それこそ身の破滅でしかない。また、議論からはみ出た選択肢を示したことがルール違反と言われるようでは、真の解決策などどこにも出てこようはずがない。問題を解決するために創造的な思考を求めることもなく、ただただ、自己中心的な人間の本性の醜さを鑑賞したり自己犠牲の欺瞞を美化した行動を賞賛するだけの感情的情緒的なお遊びになってしまう。それが目的だと言われればそれまでではあるが、不幸なことに自分の頭は、そのような感覚になじむようにはできてはいない。
こんな話もある。ある本の中でのたとえ話だ。
「人間は太陽と自分の死を見つめることはできない。太陽を凝視すれば目が潰れる。自分の死をみつめたらおそろしいことになる。なぜなら、それはわからないことだから、どんどんとおそろしくなってしまうからだ」
ちょっとした文学的な比喩表現だろう。しかしこれも、太陽を引き合いに出したところで、話が破綻している。太陽は煤をいぶし付けたガラス板を通して見ることができる。小学生の頃に、実際そうやって日食を観察した。現実的、科学的思考をバックグラウンドに持つ人間は、即座にそう言うふうに考えてしまう。
リアリストというのは、たいがいそういうものではないかと思う。だからこそ、ルールの外に出て新たな可能性を見つける能力も持っている。これは創造的な思考である。
創造的な思考というのは、一般的には理想家や夢想家の十八番のように思われているが、決してそうではない。事実を疑うこと、ルールを破ること、現実を直視して最適の解を探し求めることが、真に創造的な思考の源だと言える。そういう思考は、えてしてリアリスト、現実主義者のもっとも得意とするところだ。
理想家や夢想家は、おのれの思いこみと決めつけを信じて論旨を展開する。そうやって自分に都合の良い世界の中で演繹的に思考を展開しその論理に自己陶酔する。これは創造的な思考とはまったく方向性の違う考え方だ。そこのところが誤解されている。
世間一般に考えられている現実主義者のイメージとその実態には大きなずれがある。創造的な思考も仕事も、実際は、夢を語る理想家や夢想家からではなく、煮ても焼いても食えないような始末の悪い現実主義者の頭から生まれ出るものなのだ。
さすがに自分が創造的な思考に優れているなどと言いきることは憚られるが、すくなくとも非合理なルールに縛られて限定された世界の中で延々と論旨を展開し、自己陶酔するような愚は犯しようがない部類の人間に入っていると自認している。

2007年2月14日 (水)

孤独死

新聞に、自宅で誰も知らないままに亡くなり、発見が遅れることもある「孤独死」の事が取り上げられていた。
その記事では、社会的に孤立した一人暮らしの高齢者が、病気などで倒れても外部に連絡するすべがないままに死ぬ事を「孤独死」と定義づけている。確かにそれは問題だ。すぐに処置すればとりあえず命を助けることができるかもしれない状況で、その連絡が取れない、対応ができないというのは、社会のシステムとして看過できないことではある。しかし、それを「孤独死」などと言う言葉で呼ぶことが適切なのだろうか。なんだか問題の本質を取り違えているような気がしてならない。
だいたい「孤独」という言葉には、寂しさとか、不幸とか言う情緒的な要素がつきまとう。高齢者の一人暮らしが必ずしも「孤独」かどうか、そんなことは本人に聞いてみなければわからない。社会的に孤立していることを自ら選んだ場合だってあるだろうし、一概に老人が一人暮らししていることについて、「孤独」である、そして「孤独」であることが、「不幸」である、などと決めつける必要はどこにもないはずだ。
どの様な生活をするかということは、基本的に個人の意志によるものだ。端からとやかく言われるようなことではない。問題は、救急時に対応が取れるかと言うこと、それから、死んでしまった場合に、できる限り早くその後始末ができるかということだろう。
発見が遅れたら、本人にとっても周囲にとっても、いろいろと手間がかかる。病気や救急の場合は、本人の命を救えるかどうかについて、迅速にその対応が取られるときよりは確実に条件の悪い困難な状態で救命活動を行わなければならず、命を落とす確率も増えるし、加療やその後の治療回復についても時間も費用もかかることになる。
また、周囲に気付かれずに亡くなった場合は、保健衛生上の問題もあるだろうし、死んでから長時間立っている場合は、死因の解明や死体の処理、住居の後始末などの問題ややっかいな手続きなどの手間もたくさん出てくるだろう。
しかし冷静に考えたら、そういう事態が起こったときに、迅速かつ着実に処理を行う仕組みさえできていれば、一人暮らしであろうと何であろうと、何を問題にすることがあるだろうか。
「孤独死」がいけない、などという理由はどこにもない。本人が好んでそうするかどうかは別として、「孤独死」を問題にする一番の理由は、周囲の手間が増えることと、感情的に哀れを誘ったり嫌悪感を抱いたり、または自分の身に考えを巡らしてそのようなことを避けたいと考えたりするからにちがいない。「孤独死」をいけないものとする基準は、本人の気持ちや都合ではなく、周囲の人間の都合によるものだといってもよい。
だとすれば、「孤独死」を避けることもさりながら、「孤独死」が起こったときに、どのように処理するかというシステムが確立されていれば良いだけの話になる。
新聞記事によると2005年に「孤独死」した一人暮らしの人は東京23区だけで4729人。そのうち50歳代60歳代が55%を占め、その65%が男性で死因の23%はアルコール性肝疾患と自殺だということを強調している。しかし、2003年の主要死因別死亡者数を見ると、総数約101万5千人のうち、癌で亡くなった人が約31万人、心疾患16万人、脳血栓13万人、肝疾患1万6千人、自殺3万2千人となっている。肝疾患と自殺を合計すると4万8千人だから、その割合は4.8%。さきほどの「孤独死」した男性の肝疾患と自殺の割合は、65%x55%x23%=8.2%だから約2倍。この年齢の女性の自殺者は男性の1割程度だから、大きく見積もっても9%。この差を大きいと見るかそれほどでもないと見るかの違いはあるだろうが、どっちにしろ、一人暮らしで世間とのつきあいのない高齢者の男性の死因の1割以下でしかない。これを特におどろくほどの数値として取り上げる方がおかしい。これが普通の姿なのだと考えるべきだろう。
また、2006年に、内閣府が実施した高齢者の生活実態調査で、一人暮らしの男性のうち24%が「近所づきあいがない」19%が「心配事の相談相手がいない」と答えているというが、この数字は、もともと問題のある一人暮らしの男性に対してさえも、ある程度社会的なサポートが存在していると解釈するほうが正しいと思う。
平成17年度の国勢調査による「一人暮らし高齢者」の推計値は386万世帯。うち女性世帯は3/4を占める。さらに「孤独死」の大半は、もともと問題のある一部の男性高齢者であるはずである。だから、一人暮らしの高齢者が「孤独死」する確率を正確に計算したら、かなり低いものになるはずだ。しかし低い確率であっても、「孤独死」の及ぼす周囲や社会への影響や負担が大きいからこそ、社会問題として取り上げられているのであろう。
「孤独死」を予防するためにと、地域でボランティアが一人暮らしの老人を訪ねて回る「見守り活動」や老人会や自治会によるお互いの「声かけ」活動が推奨されたりしているが、もっと重要なのは、社会システムとして、必然的に起こる「孤独死」をいかに適切に混乱や負担なく処理する仕組みを作るかと言うことだろう。
こういう問題は情緒とか感情問題が絡まるから物事がややこしくなりやすいが、事実を真正面からとらえて、あるものはある、として冷静に対策を立てることの方が現実的だし、合理的だと思う。

2007年2月10日 (土)

コーヒーの記憶

明るく透明な日差しがココヤシの葉を通して降り注ぐ朝、波に洗われる砂を踏んで茅葺きのメス(食堂)に入り、テーブルに座って、いつものように眠そうな顔のマスターに声をかける。
「スラマッ・パギ。アパカバル?(おはよう。げんき?)」
「ヤ。スラマッ・パギ。ミンタ・コピ?(ああ。おはよう。コーヒーかい?)」
インドネシアのロンボク島マングローブ植林事業のベースキャンプ、シオラコテージの一日はいつもこんな風に始まった。
しばらくして運ばれてくるのは、ビールジョッキのように大きく重いグラスになみなみと注がれたコーヒーとグラニュー糖の砂糖壺。
パウダー状のコーヒー粉を入れたグラスに熱湯を注いだだけのコーヒー。
カレースプーンのような大さじでグラニュー糖を3杯も4杯もすくい入れてかき混ぜ、粉が沈殿するのを待って、強い香りを楽しみながら甘い甘いコーヒーをすする。
ボートの準備、苗の積み込み、今日の作業の手順の打ち合わせ。
厳しい作業の前の朝のひとときが、いつものように過ぎていく。
日陰ひとつない熱帯の無人島での作業は、ものすごい勢いで体力を消耗する。
そこでは、この甘いたっぷりとしたコーヒーが必需品だった。
作業中、おもわぬスコールでずぶ濡れになることもあった。
雨があがり、乾いた風が吹きだすと、今度は気化熱で急速に体温が奪われる。
熱帯だというのに、寒さに身体を震わせながら帰り着いたコテージでは、マスターがあの甘いコーヒーをたっぷりと用意して待ってくれていた。
夜もまた、ガスランプがともる茅葺きの食堂で、天の川が美しい星空をみながら、このコーヒーを楽しんだ。
今、都会で味わうコーヒー。
香りも味も比べものにならないほど洗練され、上品なカップに注がれたコーヒー。
なんの非のうちどころもなく、飲むたびに安らぎと満足を与えてくれる。
なのに、私の舌は、今でもときおり、熱帯で過ごした厳しくも楽しかった日々の記憶とともに、あの素朴なコーヒーの、甘い味と強い香りを探し求めている。

2007年2月 5日 (月)

地下鉄の車両になぜ窓があるのか

地下鉄は地下のトンネルのなかを走る。だから地上を走る電車のように、窓から外の光を取り入れる必要もないし、窓があいていても見えるのはコンクリートの壁だけだ。そんな地下鉄の車両になぜ窓があるのだろうか。同じようにコンクリートの筒の中を上下するエレベーターには窓は無い。最近のビルの外壁に取り付けるエレベーターは後部に展望用の窓が大きく開いていたりするけれど、これは目的が違う。本来外を見る必要のない、見てもトンネルの壁しか見えない地下鉄の車両に窓があるというのはどういうわけか、その理由を考えよ。
これは、普段疑問とも思っていない事柄にあえて疑問を抱いて、創造力を鍛えようという講義で出された設問だそうだ。答えはいろいろあった。代表的なものは、駅に着いたことがわかるように、だとか、窓がないと不安になるから、とか、プラットホームから電車の中の混み具合がわかるように、とか、換気のために必要だから、などというものである。だがこれらは皆、本質をついていない、と講師は言う。
講師が認めた、一番秀逸な答えというのは、こうだ。
「地下鉄というものができる前から、鉄道はあった。そこを走る車両には、窓があるのが当たり前であった。人々の頭の中には鉄道の車両というものは窓があるものだという既成概念ができあがっていた。だから地下鉄ができて、地下のトンネルに走らせることになったとき、なんの疑いも持たずに、窓を持つ車両の形態をそのまま踏襲して持ち込んだのだ」
この回答は、たしかに一理あるようにみえる。しかし、地下鉄発達の歴史的な背景を全く考慮していないし、窓の物理的、心理的な機能についての観点からも考察が不十分な分析としか言えないように思われる。だいいち、地上の鉄道に窓があるのを当たり前と決めつけるところからして、客観性を欠き思いこみを述べるだけものとなってしまっている。
地上を走る車両に窓がある理由は、乗客の利便と快適性を確保するために光を取り入れることと、外部の状況確認や観覧展望の要求から窓を設けることが必須の条件だ、ということだ。だからその必要のない貨物車、家畜車などには窓はない。
地下鉄の歴史はイギリスで始まった。鉄道の建設がはなやかかりし19世紀の中頃、すでに建物が密集していたロンドンの市街地に鉄道を通すため、地下を利用しようというアイデアが実行されたのだ。これは 1834年に開通したテムーズトンネルをヒントにしたものだという。しかし、この鉄道は1863年の開業から1905年に電化されるまで蒸気機関車が使用されていたため、駅構内は密閉された地下空間ではなく、天井がない吹き抜け構造だったし、路線の一部も掘割になっていた。つまり、現在のように最初から地下トンネルの中だけを走る純粋な地下鉄ではあり得なかった。ここにまず、地下鉄の車両が地上車両と同じ構造を持つ起源がある。
現在でも、たとえば東京の丸ノ内線は四谷駅や後楽園駅、銀座線は渋谷駅で地表に出、あろうことか地上高架でJRの上をまたいで走っていたりもするし、札幌地下鉄などはかなりの部分が地表を走る。その他、大阪の御堂筋線に限らず地表を走る鉄道と直通乗り入れしている地下鉄はごく一般的と言って良いくらいである。このように地表を走ることが普通に求められる環境条件下で窓のない車両を採用することなど、感覚的にも機能的にも考えられない。なべて、設備や機械装置の構造は必要性があるからこそ、そうなっているのである。
また、最初に講師に陳腐な発想だと一蹴された、「駅についたことがわかるように」という答えは、十分に納得できるもののはずだ。電車が停止したとき、もし窓が無かったとしたら、乗客は車両の内部にいる限り、路線のどの部分にいるかを物理的に知ることができない。乗客は、車両が停止したこととドアが開くことによって、はじめて駅に着いたことを知る事になる。ということは、車両が停止してもそれがトラブルで停止したのか、駅について停止したのか、わからない。窓ではなく、モニター標示などで知らせることができるという意見があるかもしれないが、そんなものは電気的な故障があったら役には立たない。直接外部を視認できる構造が一番確実だ。
また、窓は緊急時の脱出口としての意味合いもある。そのような用途まで考慮するとしたら、窓ほど都合の良い構造物はない。ようするに窓もしくは窓に変わる機能を持たない車両はフェイルセーフという観点からも明らかに欠陥品だといえる。窓がなければ構造は強固になる。あえて強度を落としてまで窓をつくっている理由はここにあると言っても良い。
そんなことより、なによりも、人間は窓のない車両のような密閉した狭い空間を本能的に嫌うものだ。ましてや外界の様子を把握することもできずに狭い空間に閉じこめられたまま高速で様々な方向に加速度を感じながら運ばれることを想像して欲しい。閉所恐怖症であろうがなかろうが、その不快感、恐怖感は並大抵のものではないはずだ。
じゃあ、エレベーターはどうなのだ、ということになるが、あれももともとはオープンなスタイルが基本だった。ヨーロッパのホテルなどでは今でも檻のような構造のオープンなエレベーターが普通に動いている。今のように密閉式が一般的になったのは、乗降時や稼働時の事故を防ぐためと、より多くの人間を一度に運ぶために大型化するにあたって構造を強固にする必要があったからだ。
同時にその運行を内部から電気的に制御したりモニターする機構が整備されたことも密閉式のエレベーターの普及に一役買った。そのスタイルが一般化して小型のエレベーターも窓なしの箱型のものが普通になってしまったが、最近は犯罪防止や開放感の要求からドア部に窓が取り付けられたものも見られるようになってきている。
窓から何も見えないということを、意味がないと判断することは間違いだ。そこには何もない、という情報がある。窓からトンネルの壁が後方に流れていく様子を見て、地下鉄が正常に走っていることを確認し、外側からエレベーターの窓を除いて、異変が起きていないかをチェックする。内と外を直接視覚的につなぎ、情報を伝達する窓の存在は必要不可欠なものと言って良い。
つまり、直接的、物理的に外界をモニターすることができないような、窓のない密閉された空間の方が構造として異例なのだ。その証拠に、エレベーターでトラブルが合った場合の利用者の精神的ストレスは尋常ではないことも良く伝え聞かれる。
これで、最初に引用した、地下鉄は地下のトンネルを走るから窓はいらないのではないか、という問いがいかに表面的な事象のみをとらえた底の浅いものであるかがわかったことと思う。飛行機になぜ窓がいるのかとか、地上を走る列車になぜ窓が必要か、事務所になぜ窓が必要なのか、などとほとんど同じレベルの思考だ。
物事の一面だけを切り出して、その理由を観念的にとらえて新たな視点から分析したり議論したりすることは、たしかに面白く役立つことかもしれないが、この場合はあまりにも例が悪すぎる。設問も評価された回答もあまりにも陳腐に過ぎるというものだ。このような議論をすることが、創造的な発想をするきっかけになると主張するのは、あまりにも安易で甘い考え方ではないだろうか。
私が、同じ設問を与えられたとしたら、まずは窓の効用をしっかりと分析しその必要性を機能面から客観的に論じた上で、「そこに外側があるからだ」とでも答えておこうと思う。

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