頭の良さの計り方
動物と人間を比較するときや、男性と女性を比較するときに、脳の容積や重さを、何CCだとか何グラムだとかといって比較することが多い。しかし、脳がどれだけよく発達しているかどうかを表現するのに、脳の皺のことを云々する。これは、脳の精神、感情その他理性的な活動を司る部分が大脳皮質といわれる部分であるという事実によっている。
人間の脳では大脳皮質、特に新皮質の面積は約2200平方センチメートル、厚さは2.5ミリメートル、ちょうど2つ折りにした新聞紙を2,3枚重ねたくらいだ。そこに含まれる細胞数は140億個にのぼる。このように大きな面積のものを一定の容積に詰め込んだときには、折りたたまれて皺ができるという考え方だ。新聞紙を丸めて小さな箱に詰め込んだのと同じだ。限られた大きさの頭蓋骨の中に、たくさんの脳をいれるにはこうしてくしゃくしゃにしておさめるしかない。
だから実質的には、脳の大きさというのは容積のことをいっているのではない。その表面積を問題にしている。脳はその表面部分にその機能の大部分が存在するという前提にたっている。なのに、脳の大きさを比較するときに、容積や重さを取り上げるのはどういうわけなのだろうか。
脳の容積や重さが問題なのなら、クジラやゾウのほうがよほど頭が良くていいはずだ。クジラの脳は7000g、ゾウの脳は4000gもあるのだから。また、脳の皺が多いからと言って知能が発達しているかどうかということもよくわかっていないらしい。たとえばイルカなどは人間よりも脳の皺の数がうんと多いという。
もっとも、頭の良さというものを、どの様に定義するかと言う根本的な問題があるから、単純な比較はできないのは言うまでもないが。
頭の良さというのは、その生き物が活動するに当たっていかに的確で迅速に物事を記憶したり考えたり判断を下せるかということだ。これはひとそれぞれ、生物それぞれによって全く違っていても不思議はない。人間の例でいえば、ある一定の事柄にはものすごい興味を示し活動的になるのに、他のことには無気力と言っていい生活をしている人種がいる。身近なところでは、こういう人間はオタクといわれるが、おおかれすくなかれ科学者は専門家に関しては、こういうタイプの方が普通なのではないだろうか。
オタクといわれるのは、興味を示す対象が、いわゆる一般大衆の平均的な嗜好に合致しないと言うだけの話だ。その一般大衆の平均的な嗜好というものは、酒と女とばくちに代表されるような、どうひいき目に見ても人間の欲求としては極めて下位に位置づけられるものなのだけれど、そこのところに疑問や批判が集中することはまずない。だから、そんな下位レベルの欲求に反応する頭より、オタクの頭の方がよほど優れているとも言える。つまり、何とでも言えるわけで、一般に考える頭の良さというものは何を基準に考えたらよいのか、いよいよわからなくなってくる。
生物としての基本に戻って、その生存能力が高いかどうかということ、言い換えれば、いかにその生物が置かれた自然環境および社会環境条件に適応して有利な立場を確保しつつ生存していくことができるか、子孫を残していくことができるか、と言う能力を考えたとき、自分を取り巻く状況に適切に対処するための物理的に体力的なことと、最善の選択を行うための認識、思考、判断にかかわることの2種類の要素が考えられる。そのうち、後者の認識、思考、判断にかかわる要素を頭の良さの基準とするのが適当だろう。
しかし、その頭の良さの基準は、その生物や個体が置かれた環境条件、社会条件によって全く違う。空を飛ぶ鳥と水の中に住む魚、イルカ、陸上の獣類、樹上生活をする動物、それぞれに求められる能力は違うし、この能力を単純に物事の認識能力や関連づけ、言語能力、学習能力などで判断することも、ほんとうに正しいのかどうかはわからない。要は、その生物が生存競争に有利に勝ち残り子孫を残すことができるかどうかと言うことだけが、結果としてのその生物の頭の良さの基準になると言ってもいいだろう。
人間で言えば、男性が仕事をする上で求められる能力の発揮の仕方と、女性が家事を捌きながらコミュニティーのなかで当たり障り無く適切にやっていく能力の発揮の仕方、そしてそれに求められる知能や知恵の性質は全く違うはずだ。そこにはそれぞれに最適の能力の発揮の仕方、頭の使い方があり、その場その場で全くちがう頭の良さの基準がある。
そんな、一定の基準のない頭の良さを計測するのに、絶対の尺度は無い。対象とする生物の行動や何かに対処する能力を見て、質的に極めて曖昧かつ独断的に判断を下すことは可能だが、明確な差を量的に計測する方法などない。頭がよいか悪いかなどという、感覚的、主観的には簡単に判断できるような事を、客観的に計測し、評価することがいかに難しいかということだ。
そこで、当たらずとも遠からずということで、代替的な計量方法として採用されているのが、脳の容積や重さ、と言うことなのだろう。この例は、きわめて乱暴でアバウトなものかもしれないが、正確に計ることができない性格のものについて、その評価を行うためにある基準や尺度を設けなければならない場合の、究極的な選択だと言っていいと思う。
このような割り切り方は、扱い方を間違えると危険ではあるが、一定の指標的基準、尺度を求めるためにはやむを得ないことだし、これで十分に目的が達成される事柄も多くある。
だから、ほんとうは、その尺度の正確さや妥当性を云々するより、どのようにそういう尺度を使いこなすかが、重要なことなのだろう。


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