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2006年12月31日 (日)

サンパイ・ジュンパ・ラギ

清潔な薄緑色のカーテンをあけると、しろっぽい街並みのはるかむこうに、港にかかる吊り橋の放物線が太陽の光にかがやいているのが見える。
「ここ、眺めがいいでしょ?」
8階にある婦人科病棟の、あかるい病室のベッドに身をおこしながら、彼女はそう問いかけた。
「うん、気持ちいいよね。きれいな部屋だし、よかったね」
明日朝8時からの手術を控えて、彼女の顔はやっぱり少し不安そうだった。
「大丈夫だよ、執刀医の先生もあんなに細かくしっかりと説明してくださったし。安心していいとおもうよ。僕も手術を受けたことがあるけれど、手術室で麻酔のガスを吸ってなんどか息をして次に気がついたときには先生の“おわりましたよ”と言う声を聞いていたんだから」
「そう、そうなんだ。私もきっとうまくいくよね。ありがとう。あ、もうこんな時間。だいじょうぶ?」
「ああ、もういかなくちゃ。それじゃ」
「うん、サンパイ・ジュンパ・ラギ」
「え? なにそれ?」
「インドネシア語で、バイバイという意味」
「あれ? スラマッ・なんとか、っていうんじゃなかったっけ」
「スラマッ・ジャラン。それ、行ってらっしゃいっていうときにつかうの。スラマッは良い、ジャランは行くっていう意味。だからそう言われたら、スラマッ・ティンガルって返すの。ティンガルは残るとか留まるとかいう意味よ」
「へえ、そうだったんだ。じゃサンパイ・ジュンパ・ラギは?」
「直訳すると、またこんど逢うときまで、という意味。インドネシア語には日本語のさよならっていう言い方はないの」
彼女はやわらかくほほえみ、僕の目を見つめながら、一言ひとことを確かめるようにそう言った。
そうなんだ。彼女、自分の病気の進行状況も、手術の成功の確率がどれくらいかも、よくわかっているんだっけ。
僕は、枕元に置かれた花瓶の白い百合の花をみながら、どういえばいいのか、言葉に詰まっていた。
「だから、サンパイ・ジュンパ・ラギ」
彼女は、もういちどその言葉を繰り返すと、こう付け加えた。
「それからね、おかえりなさい、っていうのは、スラマッ・クンバリっていうの。それから必ず、どう?元気?アパ・カバルって訊くのよ」
「うん、わかった。明日、君が手術室から出てきたらそう言うよ。じゃあね、サンパイ・ジュンパ・ラギ」
「うん、サンパイ・ジュンパ・ラギ」
彼女は、ちょっと満足げにほほえみを返すと、小さく手を振って、またベッドに横になった。
病室を出、ナースステーションに向かって歩きながら、僕は聞き漏らしたことがあるのに気がついた。
「スラマッ・クンバリ。アパ・カバル?」って言ったら、彼女はなんと答えるのだろう?
彼女は、わざと教えてくれなかったのにちがいない。
手術室から出てきたときに、僕にほほえみながら教えてくれるために。
きっと手術は成功し、彼女は元気になる。
僕は、そんな確信が心の中に広がるのを感じながら、いつになく優しく見える街の風景の中を駅に急いでいた。

2006年12月30日 (土)

披露宴祝辞サンプル

アキラくん、マサコさん、ご結婚おめでとうございます。
ササキ家、タカノ家、また両家ご親類のみなさま、本日は誠におめでとうございます。
ただいまご紹介にあずかりましたマルバツ社ヤマナカ事務所長のサルクマです。アキラくんの直接の上司に当たる人間です。
さて、我々の会社は、一般には余りなじみがないかと存じますので少しご紹介をしたいと思います。
アキラくんが森林官として働いている、ヤマナカ事務所は、マルバツ社の地方組織として、土地所有者の皆様からおあずかりしている山林を地元で管理する事務所です。
しかし、その中身はちょっと特殊でして、職員がそれぞれ山林管理の技術者として山を歩き、木を切ったり植えたりする計画から実際の作業の現場監督まで行うという、普通の不動産管理会社のような事務所とは少し違ったタイプの仕事をしています。
ヤマナカ事務所がカバーするエリアはハチカク県ですが、それぞれの地域にスタッフを常駐させて地元と連携を取りながらきめ細かな仕事をしていくために、地元駐在所がおかれています。
アキラくんは、サンカク市、エンスイ市にある山林を担当するスタッフとしてご活躍されています。
サンカク市はハチカク県でも有数の林業地帯の一つですし、エンスイ市で管理を任されている山林は、ホウオウ山といって市民のレクリエーションの場として重要な位置を占めているところ、と非常にバラエティーに富んだ地域で、臨機応変に、地元と良い関係を保ちながら、仕事を進めていくことが必要です。
これまで、直属の上司として、アキラくんの仕事ぶりを見させてもらってきましたが、彼は、地元の山林事業組合や、観光協会、県の出先機関や市の職員の方々とも大変良い信頼関係を築いて着実に仕事をしてこられています。
だいたい、地元の地域活動の中心となる方々、山林関係の方々というのは年配の方が多くて、ともすれば、若手のスタッフ、しかも彼のように独身でたった一人で地域に放り出されたような環境では、なかなか信頼してもらえない、よい関係が築けないという問題もあるのですが、アキラくんの場合は大変うまくいっている。これはなかなかのものだと思います。
彼のいいところはどんな相手であってもフレンドリーにとけ込んでいくところでしょう。
実は、しばらく前に、彼は仕事に関連して地域の方との関係でちょっと困難な立場に立たされたことがありました。彼にとっては非常にストレスの高い、ほんとうに大変な問題だったと思いますが、そのとき感心したのは、彼が本来なら彼に対してもっと厳しくあたってもよいとおもわれる相手方からも、一定の信頼を得て接していただけている立場を確保していたことでした。
これは、彼の人柄にもよることでしょうが、他に比較できない素質というか才能のようなものだろうと思います。このような素質をうまく伸ばして、さらにいっそう活躍してほしいと心から願っています。
さて、新婦のマサコさんも、この8月までヤマナカ事務所でアルバイトとして勤めていただいておりました。私は昨年の8月に着任してちょうど1年のおつきあいでしたが、彼女は本当に有能で煩雑で気をつかう事務や雑用もいやな顔一つせずてきぱきとこなされておりました。
それでいて若い女性らしいかわいらしさというか、ユーモアもふんだんに持ち合わせておられて、彼女がいることで事務所の雰囲気もなんとなく明るくなるようなそんな方でしたので、こういう女性を嫁さんにするひとはしあわせだろうな、などと、職場のおじさんとしては、よけいなことも考えたりもしておりました。
それが、この8月に急にやめられるにあたってとても残念でしたし、何も理由らしきことも言われなかったので、どうしたことかと思っていたのですが、つい1か月ほど前に、アキラくんが、いきなり「私事ですが、結婚します。相手はタカノさんです」といったときには、さすがにびっくりしました。
それまでまったく、ひとかけらもそのような噂はなかったのですから、本当に驚きましたですね。事務所内誰も知らなかったと思います。
それで一瞬、マサコさんとアキラくんの顔がどうしても結びつきませんで、しばらく顔を眺めてましたが、そのうち、あることを思い出しました。
先ほどお話しした、彼が非常に大変な問題にぶち当たっていたとき、私が彼の地元駐在所を訪れたことがあったのですが、昼休みの時間帯だったでしょうか、彼の携帯に電話がかかってきました。プライベートな電話だったようで彼はすぐに外に出て電話の応対をしていましたが、彼はやたら声がおおきいんですね。漏れ聞こえてくる声からは電話の主がほんとうに親身に彼のことを心配して力づけているような雰囲気に聞こえたのを覚えています。
そのころは彼は独身でたった一人で地元駐在所にいたわけですから、こころぼそさもひとかたならぬものがあったでしょう。そのときにそういう人がいるということはいいことだな、彼は幸せ者だなと思ったのを覚えています。
おそらくは、それはマサコさんだったのだろうと、いまでは想像しているのですが、ちがいますか?
それはともかく、アキラくんマサコさんともに大変に人間的に魅力があり、お互いを思いやる気持ちのあるすばらしいカップルだと思います。
私も一応結婚して子供もあるので、この面からは先輩といえるのでしょうが、カップルとして生活を共にするというのはどちらが主でどちらが従ということはありません。どちらもが互いに相手を思いやり、頼りあい、励まし合いながら人生をかたちづくっていくことだと思います。
その点では、アキラくんマサコさんにはその素質が十分以上にあると信じています。どうかこれから、お二人でよい人生を築かれることを、こころより願って、あらたな二人の門出にあたってのお祝いの言葉とさせていただきます。

2006年12月29日 (金)

スポーツぎらい

2年前に五十肩になって以来、およそ運動と名のつくことはやったことがない。だいたい、普通の生活をしていて、さらに運動しなければいけないことなどあるのだろうか? 
普通の家事労働でもかなりの体力筋力を使うものだし、都市に住んでいれば住まいと職場が駅の目の前などという特殊な条件でもない限り、毎日通勤で相当の距離を歩くことになる。満員電車に揺られるのは、これまた相当以上の重労働だ。これに加えて、私の場合は、職務中椅子に座っているときでも滅多に背もたれにもたれることはないし、階段があればよほど疲れているときを除いてエスカレーターやエレベーターもほとんど使わない。歩くときはかなりの早足で一気に歩く。
これだけで、普通の人間には十分以上の肉体的な運動をしていることになるはずだ。それで十分快適に毎日を過ごしている。だから、自分から運動などというものは一切しない。スポーツなどはもってのほかだ。それでいいと思っている。
問題は、運動をスポーツと称してうれしそうにやったり人に勧めたり、果てはスポーツ観戦などといってお祭り騒ぎをして熱狂したりする人間達がいるということだ。理解できない。
なんで、そんなことをしなければならないのだ。プロのアスリートは見せ物としてお金を稼いでいるわけだから、いいとして、素人がなぜ価値も生まない見返りもない上に他人の鑑賞に堪えうるでもないスポーツまがいのことを嬉々としてやっているのか。そしてそれをまた、人に勧めたり強要したりするのか。迷惑千万とはこのことである。
そういう人は、スポーツ嫌いの人間のことを、怠け者だとか不健康だとか精神が堕落しているとか運動神経が鈍いからだとかいうが、必ずしもそうではない。自分のことを例に引き出して申し訳ないが、自分は視力が悪いのでボールを目で追うことが出来ず、球技は全くの不得手だった。しかし学生時代、陸上競技も器械体操も一応は平均以上であったし、いちおうプロではあるが山歩きなどではこの年齢になっても、なぜ同行している人々が息を切らせて休みたがるのが理解できない。それくらいの体力は維持している。
それでも、スポーツと名の付くことはやらない。とにかく、純粋にスポーツは大嫌いなのだ。というよりスポーツという概念や社会での扱われ方が徹底的に気に入らないのだといってよい。
最たるものは、各種メディアによるスポーツの報道だ。なんであんなに紙面や時間を取ってスポーツの中継をしたり、結果をにぎにぎしく騒ぎ立てて報道する必要があるのだ。NHKなんて、公共放送だろう? スポーツ観戦のような一部の人間の偏った娯楽のためだけにどうして我々が視聴料を支払ってやらなければならないのだ。さらに野球やゴルフやテニスやサッカーやボクシングなどのプロスポーツなんて、ようするに金儲けの見せ物だろう。そんなもののお先棒を担いで恥ずかしくないのか? テレビやラジオでスポーツの中継や結果の報道ほどじゃまになるものはない。強制的に見聞きさせられるたびに、テレビやラジオをたたき壊したくなるほどだ。
新聞も同じだ。なぜ2面も3面にもわたるスポーツ欄なんてものがあるのだ。そんなものは、それ専門の情報誌に任せておけば良いではないか。もっとまじめに報道しなければならない事柄がいっぱいあるだろう。それ以前に、新聞そのものが社会の事象の的確な報道と言うよりは、偏った見せ物芸的のぞき見趣味的な猥雑で低俗な存在に成り下がってしまっていることのほうが問題ではあるが。「言葉のチカラ」と「信頼される報道」(朝日新聞)だと? おのれの実態を棚に上げて、自らの存在を正当化する牽強付会の論理、詭弁というのもここまでくれば芸術ものだ。
それはともかく、こんなものにお金を払いたくない。だからテレビは見ないし、新聞も取っていない。
とにかく、スポーツ観戦などに熱狂して時間をつぶす人間はよほどやることがないのではないかと思う。そういう馬鹿などうしようもない人間を相手にしてスポーツという見せ物商売が成り立っている。大きな顔をしないで欲しい、
一番けしからんのは、スポーツ好きの人間はすべての人がスポーツ好きだと信じて疑わず、その嗜好を押しつけてくることだ。これはほかの社会的に認知された健全な大人の娯楽にも共通していえる。酒、ばくち、風俗、不倫、ゴルフや麻雀などの営業用社交遊技、スポーツ見せ物観戦、どれもこれも、やりたい人が勝手にやってくれ。他人を巻き込むな。
とにかく、こっちはこっちで、そういう人たちのやることに不快感はあるけれどやめろとはいってない。だから、そういうものをしたり顔をして強要するな。お互いに自由な生活を維持することだけを望んでいるのだ。スポーツ愛好者、大人の娯楽愛好者は、いい加減にそれを理解していただきたい。
自由とは孤独である。孤独に耐えられない軟弱ものが群れて必要以上に強気になっている。そんな屑のような人間には、孤独の厳しさを承知の上で自らの自由を維持している人間に口出しする資格はない。また、彼らの口出しは決して、孤独で自由な人間には届かない。その無粋で無知蒙昧なおしつけがましい行動はただ嫌悪感と哀れみをさそうだけだということも知っておいた方がよい。

2006年12月28日 (木)

象が踏んでも壊れない

趣味として模型鉄道を楽しんでいる。日本では鉄道模型という言い方の方が普通だとおもうが、わざわざ模型鉄道といったのにはわけがある。実物の鉄道が好きなわけではなくて、模型が好きなのだ。だから鉄道マニアのような実物の知識は、ほとんど皆無と言っていい。それをまた自慢に思っている。模型をアートの一つととらえることだって間違いじゃないと思っているからだ。
最近夢中になっているのは、LGBというドイツ製の大型模型鉄道だ。これはもともと野外で楽しむ庭園鉄道用としてつくられているので、丈夫なことこの上ない。おおきさは公式には1/22.5ということになっているが、実際は模型としてバランスよく見えるようにかなりのデフォルメが施されている。HOスケールやOスケールなど一般的な鉄道模型を見慣れた目から見ると、おもちゃっぽいとも言える形態だが、庭園鉄道でのあらっぽい扱いにも十分に耐える構造をしているし、その独特のデフォルメの味がまた何とも言えず好みに合う。もちろん全天候型で、雨の日も風の日も雪の日も運転を愉しめる。
レールは当然、屋外に敷きっぱなしになる。だからこれももちろん全天候型で、枕木は紫外線にも劣化しない材質のプラスチックでできている。さらに庭を散歩する人に踏まれても傷一つつかないくらい丈夫な構造になっている。カタログにはそのことを強調するためだろうか、象にこの線路を踏ませている写真が誇らしげに掲げられていた。
日本でも昔、「象が踏んでも壊れない」というキャッチフレーズで大流行した筆入れがあった。テレビでもCMが放映されていて、実際にその筆箱を象に踏ませていたように記憶している。当時小学生だった私達は、「これは、すごい!」と単純に感激し、あらそってその筆入れを買ってもらって使ったものだった。
それにしても、なんで象に踏ませるのだろう。
象は陸上動物の中では一番大きくて重いし、昔は軍の戦闘用としても使われて、強大ですごい破壊力があるというイメージがあるからかもしれない。だからというわけではないが、万国共通に、ものの丈夫さを強調するのに、「象が踏んでも壊れない」という発想がでてくるのは興味深い現象だ。
しかし、実際に象が踏んでも壊れないためには、どれくらいの強度があればいいのだろうか? 
平均的なアフリカ象の重さは5から6トンだ。この体重を4本の足で支える。体重を6トンとして、それぞれの足に平均に体重が配分されるとした場合、足一本にかかる体重は1.5トンとなる。1.5トンの重さに耐える筆箱というのは、ものすごい製品だとすなおに感動したくなるが、実はことはそんなに単純ではない。
小学生の頃、象が踏んでも壊れないくらいだから、と机の上から床に置いた自分の筆箱に飛び降りたガキ大将が、蓋をみごとまっぷたつに割り壊してしまって、べそをかいた。だから、あのCMは嘘っぱちだという事になったが、いや、たまたまその筆箱が不良品だったからだという意見もあって、そのときは結論がでなかったのを覚えている。
いまは、子供が飛び降りたくらいで壊れた筆入れを、象が踏んでも壊れなかった理由が理解できる。象の足の裏の大きさに対して筆箱はあまりにも小さい。だから、象の足の裏の大部分は直接地面に付いてその体重を支え、筆箱にかかる体重はその一部だけになるのだ。つまり、筆箱にかかる象の体重は、単位面積あたりの重さで考えなければならない。問題は、筆箱の上面1平方センチあたりに何キログラムの圧力がかかるかということなのだ。
象の足の裏の大きさをだいたい直径40センチくらいとするとその面積は1250平方センチ。6トンの体重が4本の足に均等に分配されたとしてそれぞれの足の裏にかかる1平方センチあたりの圧力は、
6000kg ÷ 4 ÷ 1250cm^2 = 1.2kg/ cm^2
となる。
1平方センチあたりわずか1.2キログラムだ。
筆箱の上面の大きさを20センチx5センチとすると100平方センチ。全体で120キログラムの重さを支えればよいことになる。これはこれでそれなりにすごい重さだと思えないこともないけれど、象が踏むというのは、見かけよりもうんとそのインパクトが少ない事に驚いてもいいのではないかと思う。
となると、ガキ大将が机から飛び降りて筆箱を割ることが出来たのはどういうわけか。
ガキ大将の体重を30キログラム、筆箱の上に乗っかった片足のかかとの面積を5センチ四方として25平方センチと考えると、
30kg ÷ 25cm^2 = 1.2kg/ cm^2
かかとで筆箱の上に乗っかっただけですでに象に踏まれたのと同じ圧力がかかっていることになる。
さらに飛び降りた机の高さを60センチとすると、筆箱にかかとがぶつかるまでの時間は、約0.25秒、ぶつかった瞬間の落下速度は、約2.4m/sになる。
ぶつかってこの速度が0になるまでの時間を0.1秒とすると、ぶつかった瞬間の加速度は、
2.4m/s ÷ 0.1s=24m/s^2 
これは、重力加速度9.8m/s^2の約2.5倍に当たる。つまり、ガキ大将が机から飛び降りて筆箱をかかとで踏んだ瞬間には、床の上で筆箱をかかとで踏んだ時の約2.5倍の力がかかる。象が踏んだ力の2.5倍の力がかかるというわけだ。
しかも、象が踏んだときとは違って、その力は筆箱の上面全体にかかっているわけではない。5センチ平方という、筆箱のふたの一部に集中してかかるわけだから、力のかかっていない部分との間に大きなひずみが出来る。筆箱のプラスチックはこのひずみの応力に耐えられなかったのだろう。
象が踏んでも壊れない筆箱が、小学生が机から飛び降りて踏んだくらいでまっぷたつに割れた理由はこういうわけだ。計算してみれば何のことはない、当たり前のことなのだが、一般にとらえられているイメージとは、あまりにも大きな隔たりがある。
このようなイメージと物理学的な事実とのギャップを利用したトリックや誇大広告などは、注意深く探せばいくらでも見つかるだろう。そのギャップのおもしろさを楽しんでいる間はいい。知識が無いばかりに本気で信じ込んだりだまされたりすることが怖い。
学校教育というのは、本来人生の中でそのような錯誤をしないように、知識を授けるものであって欲しいのだが、はて、実際にはどうなのか。一部の理科系の人間を除いては、このようなことに感心を持つことさえないのが実態ではないだろうか。
なんとなく、日本の将来が不安に感じられる現実である。

2006年12月27日 (水)

ちょいワルおやじ

ちょっとまえに、いや、今でも現役ではやっている言葉のひとつだろうか。「ちょいワルおやじ」という言葉がある。
電車の中で雑誌の吊り広告などを見ていると、必ず出てくる言葉だ。私には、これが全く理解できなかった。「ちょいワル」ってなんだ? 何のためにそんなファッションや生活態度をするのだ? 「ちょいワル」というのは、どこがどう評価されるのだ?
本能的に生理的な嫌悪感を感じつつも、どうにも腑に落ちないすっきりしない気持ちが高じて、ネットで「ちょいワル」のイメージを探ってみた。その結果は予想通り、見事に小金を持った団塊世代とそのジュニアのメンタリティーに合致するもので、なるほどと感心も得心もいく様な内容だった。
つまり、この「ちょいワル」の唯一究極の目標は、「女にモテること」らしいのだ。なんとまあ、なさけない、さもしい目標であることか。中高年「ちょいワル」おやじの大志は、女にモテることだけなのか。「ちょいワルおやじ」に加えて「ちょいモテおやじ」なる言葉もあるのだから、あきれはててしまう。
「ちょいワル」というのは、もともとは、「雑誌『LEON』が提唱した、不良がかった中年男性(おやじ)のファッション。あるいは、それを範とする中年男性(wikipedia)」のことらしい。さらに調べてみると、雑誌『LEON』のターゲットは、だいたい年収1500万円ぐらいの、小金を持っている「よこしまオヤジ」向けだとのこと。つまり、一部の中年男性とその不倫相手層が支持する、よく言えば野生的、悪く言えば着崩た汚らしい、チンピラまがいのファッションやその生活スタイルというわけだ。
こんなものに恥ずかしげもなく迎合して安易に乗っかることができるのはもう、団塊世代のメンタリティーくらいしかないだろう。
雑誌『LEON』のターゲットは、いちおう高度経済成長期に20代、30代を過ごした人たち、つまり現在の40後代から50代らしい。その年代は、ほぼ自分に重なる。しかし、団塊の後始末世代として、延々とその尻ぬぐいをしてきた自分にはこういう感覚は薬にしたくても無い。それにこの年代は子供の教育費などに一番お金がかかる時期でもあるし、もしあるとしても、家庭を顧みないプチ富裕層のそのまた特殊なメンタリティーの持ち主くらいしか意図するターゲットには入ってこないはずだ。
だいたい、女にモテることと、他人のあら探しをして優位に立つことに血道を上げるのは団塊世代の際だった特徴だ。だからこそ、「ちょいワル」「ちょいモテ」などという聞くも情けないキーワードに、かくも敏感に反応するのだろう。しっかりした価値観と好み、そして長く楽しんできた趣味を持つ人間なら、この語感のみっともなさ、情けなさに嫌悪感を感じて普通だと思う。
小金を持っているけれど、使うあても器量もなく、「女にモテる」ということを人生の目標や生き甲斐と感じる人間が、この言葉に飛びついて踊らされているのだろう。なにしろ、この、プチ富裕層となって「女にモテる」、という願望や価値基準は、団塊世代が若かりし頃に、底の浅い社会主義イデオロギーへの傾倒以外に唯一夢中になった事柄だから。
むかし、高度成長期のまっさかり、「私をスキーにつれてって」という映画があった。とにかく、ひたすら女のことしか考えてないようなサラリーマンの生活と行動をバブルの異常に贅沢かつ浪費的お祭り騒ぎ的社会世相の中で見事に描き上げた映画で、およそ団塊世代のノスタルジアをこれほどそそる映画も無かろうと思う。しかし、我々世代にはその内容はもう、理解不能に近いものだったし、我々以下の世代には主人公らの価値基準、行動基準はいったいなんなのかと、疑問としらけを誘発するものでしかなかった。バブルの贅沢さに囲まれて女にモテる。ただそれだけが、共通の認識と人生の目標の様な世界だ。これを肯定できるのは、団塊世代しかいないと思う。
雑誌『LEON』を出版していた会社は、今度はさらに、それ以上の富裕層、年収で言うと2000万円から数億円の、言い換えれば大金持ちの「よこしまオヤジ」をターゲットとした雑誌を出すそうだ。
格差社会の中、そういう富裕層が増加してきているのだろう。こうなってくると流行の世界も「ちょいワル」だとか「ちょいモテ」だとかいう価値基準とは、まったくかけ離れた世界になって行くに違いない。そのとき、安易に世間の流行に乗っかり、借り物の安心感を得て充実した人生を送ってきた、大富裕層以外の一般的な団塊の世代たちはどうするのだろうか。
彼らの不平不満を吸収する、浅薄で自己の価値基準を持たないものにも容易に受け入れられるお手軽な人生の目標を用意してやらないと、なんとなく大変なことになりそうな予感がする。

2006年12月26日 (火)

12月26日の夢

タイの町中だと思う。ブロックを積み上げて白い漆喰を塗った壁に木造の屋根裏が見える家の中にいる。壁は、長い間に灰色や黒や黄色っぽい汚れやシミがいっぱい付いてまだらになっていた。家の間口いっぱいにつくられた土間が道路に開いていて、かなり古くて汚れた青と白の縞のテントが道の方にさしかかっている。土間とテントの下にプラスチック製のテーブルと椅子が置かれていて、ここはどうやら町の小さなレストランのようだった。
小柄な黒髪の女将さんがこの店を切り回しているようで、店員の娘がカウンターのところで注文を取っていた。カウンターはニスを塗った胸の高さあたりまである木造で、上の部分の半分はガラス板がたてられてある。そのなかに小銭をしまう引き出しがあるらしい。
注文をすると、グラシン紙のような薄い紙で出来た伝票の束を出して、ボールペンで料理の名前を書き付けてくれる。これが注文書と領収書を兼ねているらしくて、お金を支払うとこの紙をくれた。
料理は、土間の奥にあるガラスケースの中から、自分で皿にとってもいいし、そばにいた娘に伝票を見せて取ってもらっても良かった。小さな皿に少しずつ入ったいろいろな料理がならべられていて、土間の奥のキッチンから次々と追加されるようになっていた。
かいがいしくお客さんの世話をしている娘は、卵形の顔に切れ長の目と小さなつんとした鼻に小振りな口もとが愛らしい。この国の娘としては肌が浅黒いが、ひっつめた黒髪にとがったあごがよく似合っていた。女将さんとよく似ているので、聞いたら実の娘だという。名前はリン。普段は学校に通っているのだけれど、今日は午前中は休みで、昼から語学の試験を受けに行くのだという。
「語学の試験って?」と聞くと、「日本語のよ。勉強してるの。この試験に受かったら資格が取れて、日本語学校で教師の補助になれるの。それからまた、勉強して、日本に行くつもり」という。
そういえば、自分もその語学試験を受けなければならなかったことを思い出した。ただ、私の場合はタイ語だ。なんといっても、ここに住んで、いまだに一言もタイ語が話せない。読むのもさっぱりだ。娘や女将さんと意志が通じるのも、彼女たちが片言の日本語で話してくれているからだということに、このときになってやっと気がついた。
試験のことを思い出して、さすがに焦った。何にも準備をしていないし、今の実力では到底まともに点数を取れるなんて思えない。なにしろ、問題を読むことさえ出来ないのだから。これは困ったことになったと思ったけれど、この国に住む人は、定期的にこの語学試験を受けることが義務づけられている。私の場合はこれが最初なので、なんとかおまけしてくれるかもしれないと思ったけれど、あまりひどい点数だと強制退去という扱いになるらしいことを聞いているので、とても不安になって焦ってしまった。
「大丈夫よ、なんとかなるわよ」とリンが気楽に言う。人ごとだと思って、とちょっと腹が立ったが、あんまり無邪気にほほえんでいるので怒る気も失せてしまった。
試験は町の公会堂で行われるので、今いる店からは、かなり遠い。市電とバスを乗り継いで行くので、時間がかかる。自分はどういうわけか、車でこの店に立ち寄っていたので、ついでにリンを試験場まで乗せていってあげることにした。車は、この国に来てすぐに4ヶ月間の契約で借りたランドローバーだ。ガソリン代はこちらもちで、日本円にして月4万円。なにしろ古いものなので、これくらいの値段で借りられたが、いつパンクするか故障するかわからないような代物だ。それでもこの国では十分普通の車として通用している。
駐車場は店の前の道を挟んで斜め右向かいにあった。土のままのどろんこの駐車場だ。すぐ西側は踏切になっていて、貨物専用線が走っている。めったに汽車が通ることはないけれど、機関車はその昔、オランダの会社が持ち込んだD型のタンク式蒸気機関車で、いまでも綺麗に手入れされてつかわれている。外国からファンがやってきて写真を撮る姿を見ることも多いのだそうだ。
助手席にリンをのせると、駐車場を出て右に折れ、店の前をとおって市電が走っているとおりに出ることにした。そのあたりは鉄筋コンクリート造りや古い煉瓦造りのビルなどが建っているけれど、以前の戦争で破壊された町の傷跡が癒えきらず、建物が歯抜けになっているところが目立つ。市電のトロリー架線を支持するワイヤーはビルの壁からつり下げられていたが、建物が歯抜けになっているところには、木の電柱が立っていて、あぶなっかしくワイヤーで控えが取られていた。
「あのね、いっしょに試験を受ける友達と、アユタヤティの市場の広場で待ち合わせしてるの。だから、そこ寄っていってくれないかな?」とリンがいう。半分日本語で半分タイ語なのでわかりにくかったけれど何とか意味が取れる。これは都合がいいと思って、運転しながら、タイ語を教えてもらうことにした。
「じゃあ、道筋教えて。それから、僕も勉強したいから、日本語とタイ語で同じ事を繰り返していってくれないかな」というと、いきなりフロントガラスをとおして交差点を指さしながら「そこ、右ね」と日本語とタイ語で言ってくれた。飲み込みのはやい娘だ。
「市電の通りを通らずに近道をするから、私の言うとおりに行ってね」と彼女は次々と忙しく右、左と指示を出す。それだけでも結構タイ語の感覚がつかめるような気になってちょっとうれしかった。
道はくねくねと曲がっていて、市場の広場に付くのにはかなり時間がかかった。今日は市場は休みなので、廻りの店はみんな閉まっていて、市電通りに面した入り口から見える広場はひっそりしている。石畳の広場は、普段の日はきっとたくさんの人が行き交ってさぞにぎやかなのだろう。ところどころに藁くずや割れた木箱のかけらなどがあるけれど、いちおう毎日綺麗に掃除されているらしい。
「いるかなあ。チェンちゃん、自転車で来てるはずなんだけど、遅かったら先に行っててっていっといたから」と、ちょっと眉をしかめながら娘が言う。案の定、広場にはもう、チェンちゃんはいなくて、待ち合わせ場所の掲示板に、「リンへ、先にいくね、チェン」というチョークの文字があった。
車をバックさせて通りに戻り、公会堂に向かった。今度は市電の通りをそのまま走る。それが一番の近道だからだ。途中で、自転車に乗ったチェンが走っているのに追いついて、リンが窓から手を振る。おかっぱ頭のチェンも気付き、片手をハンドルから離して勢いよく振った。白いシャツと紺のスカートが強い日差しにまぶしかった。虹色にひかる髪留めが黒髪にきらきらと輝いているのを見ながら、自転車を追い越して、おんぼろ車のアクセルをふかし、坂道を上がっていくところで目が覚めた。

2006年12月25日 (月)

サンタさん

今日はクリスマス。うちの子供たちはもう大きくなってしまったので、クリスマスは、家族で愉しむセレモニーの一つと解釈しているけれど、小さな子供さんのいる家庭ではまだまだサンタさんは実在の人物。昨日の夜から今朝にかけて、お父さんお母さんたちは、子供の純真な気持ちを裏切らないように、楽しくも大変な時を過ごしたのでは無かろうか。
クリスマスといえば、本来はキリスト生誕を祝う祭りのはず。本来ならキリスト教関係のセレモニーとして、教会を中心に執り行われる一大イベントで、宗教的な儀式のはずなのだ。しかし、日本ではそんなことは全く忘れられたかのように、クリスマスツリーやリースなどの華やかな飾り付けとサンタクロースのプレゼントばかりが強調されて、年末恒例の風物誌となっている。
サンタクロースそのものは、4世紀頃の東ローマ帝国のキリスト教の教父、聖ニコラウスが、三人の娘を結婚させるお金のない父親の嘆きを聞きつけ、気の毒に思って夜になってからその家に金塊を三つ投げ込んだところ、それが靴下の中に入った、という伝説がもとになっているらしい。靴下の中にプレゼントを入れるのはこの伝説によるという。
だから、聖ニコラウスを守護聖人として信仰するオランダやベルギー、ドイツなどの一部地方では、聖ニコラウスの命日である12月6日がサンタクロースが子供たちにプレゼントを持ってくる日になっている。サンタクロースは聖ニコラウスのオランダ語読みなのだ。
その習慣が12月24日のクリスマスイブになったのは、イギリスにあったクリスマスイブに子供たちにプレゼントを持ってくるファーザークリスマスという風習と融合したためで、さらに、現在のようなサンタクロースのイメージが出来あがったのは19世紀中頃、アメリカでのことだという。
だから、これは比較的新しい風習だし、かならずしもキリスト教と密接に関連しているものではない。クリスマスを祝うことと、クリスマスイブにサンタクロースが子供たちにプレゼントを持ってくるという風習がごっちゃになっているから妙な気がするだけで、サンタクロースを純粋に取り出して、バレンタインデーのようなイベントとして位置づければ、宗教色のない日本のクリスマスの楽しみ方は、かえって人間的で楽しいセレモニーとして推奨されるべきものではないかと思う。
このクリスマスというイベントに乗っかって、どれだけの家庭が子供たちと楽しいひとときを過ごしているかを考えると、そのありがたみがわかる。実際、自分の家庭を振り返ってみてもそうだった。ほんとにちいさいころは、いかにして気付かれずにプレゼントを用意するか、それはもう毎年、親としては楽しみ半分苦労半分の大イベントだったし、物心付いてからは、サンタクロースに願い事の手紙を書かせて、文章の練習までさせることが出来たというおまけ付きだった。
ちいさなころは、どんな手紙を書いたかすなおに教えてくれたし、書いた内容に間違いがないか見てあげると言って願い事の内容を確かめてプレゼントを買いに走ったことも多かった。けれど、少し大きくなって自分でしっかりした文章が書けるようになったある年、手紙の内容を見せてくれなくて、これには参ってしまった。いくら頼んでもだめなのだ。サンタクロースに出す手紙なのだから、お父さんお母さんが知らなくてもいい、というのは理屈が通っている。
このときは、子供が寝てから手紙の内容を見ることが出来たけれど、望みの品物はすぐには手に入らない。しかたなく、サンタクロースの名前で、「実は同じものをほしがっている子供が多くて、途中で持ってきた品物がおしまいになってしまいました。ごめん。かわりにクーポン券を置いておくから、お父さんとお母さんに渡して買ってもらってください」という内容の手紙を書いて、枕元に置いておいた。
子供たちは少しがっかりしたようだったけれど、とにかく、サンタさんから返事の手紙がもらえたと言うことで、無邪気に喜んでいたように思う。まあ、それからサンタクロースのプレゼントはお父さんお母さんが用意するものらしいことに気付いたふしもないではない。だからといって、クリスマスプレゼントのセレモニーの意味が薄れることはなかった。子供たちが大学生と高校生になったいまでも、もうプレゼントこそないけれど、ささやかにクリスマスの飾り付けをして、手作りのケーキを楽しむ年末のセレモニーは続いている。サンタクロースを信じているかどうかなどということは、もう問題ではない。これは、とても大事なことだと思う。だから純粋にクリスマスの行事とサンタクロースの存在に感謝したいと思っている。
そこで、ちょっと気になって、サンタクロースを信じているかということについて、ネットで調べたら、こんなアンケート結果を見つけた。

問い:サンタクロースをいつまで信じていましたか?
幼稚園まで       14票19%
小学校低学年まで    26票35%
小学校中学年まで     7票 9%
小学校高学年まで     2票 3%
中学生                0票 0%
高校生                0票 0%
大学生                0票 0%
今でも信じてるさ~~   7票 9%
子供の時から信じてない 18票24%
その他          1票 1%

たった75人のサンプル数というのはちょっと問題があるような気がするし、アンケート対象者にも偏りがあるのではないかとおもう。だが、この結果には少しだけ驚いた。半数以上が小学校低学年まで信じていた、というのは、お父さんお母さんの子供を思う気持ちが想像できてとってもほほえましい。驚いたのは、子供の頃から信じていない、というのが1/4もあることだ。最初から、回答の選択肢に入っていることも影響しているのだろうが、本当なのだろうか?
実際は、子供の頃考えていたことを正確に覚えている人の方が少ないと思う。だから、本当のところはわからないのではないか。普通の家庭なら、クリスマスのセレモニーを、子供を喜ばせるために精一杯演じるはずだ。だから、この人たちは、大人になってから、サンタクロースがいないことに気付いたショックを忘れようとして、子供の頃から信じていない、と答えたと思いたい。
最近の様々な不幸な事件を見聞きするにつけ、それは、楽観的なものの見方かもしれないとも思う。けれど、出来ればすべての子供たちとお父さんお母さんたちがサンタクロースとクリスマスのセレモニーを愉しめるような世界でいてほしいと、ちょっとだけ、感傷的になりながら考えた。

2006年12月24日 (日)

忘れてならないことと忘れなくてはならないこと

こんな文章を目にした。
>人には、忘れてはならないことと、忘れなくてはならないことがある。
>自分が恩義を受けた人のことは、忘れてはならない。
>自分が恩義を施した人のことは、忘れなくてはならない。
司馬遷の『史記』に出てくる警句だという。
普通なら、なるほど人間たるもの、こうでなくてはいけない、と思うところだろうが、読んだとたんに何とも言えない違和感を感じた。
この違和感の理由が即座にはわからなかった。しかし、とても居心地が悪い。いつまでも心の片隅に引っかかって、気持ちが悪くて仕方がなかった。そこで、なぜそう感じたのかその理由を考えて整理してみることにした。
一番引っかかりを感じたのは、この警句の対象が「恩義」ではなくて、「恩義を受けた人」であることだった。「恩義を受けたこと」に対して感謝するのではなくて、それを施してくれた「人」に感謝する。それは一見あたりまえのことのように見える。しかし、本当に感謝すべきなのは、その人が「恩義を施した」という行為であって、その「人」そのものを無条件に感謝の対象とすべきではない。
恩義を施した人にはそれなりの理由があるから恩義を施したのであって、極端な話、その人の全人格をあがめ奉る必要などどこにもない。「恩義」を「借金」という文字に置き換えてこの警句を読み直してみればその実態がよくわかる。金を借りた人のことは忘れてはならないが、金を貸した人のことは忘れろ、では意味をなさない。
これが、金を借りたことは忘れてはならないが、金を貸したことは忘れろ、というのなら、誠実かつ太っ腹な人格者として評価され賞賛される人生を歩むための教訓、規範ともなるのであろうが、人を忘れる忘れないを問題にする場合は、おのれの人生にとって損得を計算して、つきあう人間の選別を行えという警句として解釈するのが妥当だ。
つまり、一度金を貸してくれた人は、またもういちど金を貸してくれるかもしれないから忘れないでよくつきあっておけ、反対に、金の無心などしてくる人間は繰り返し繰り返し金を貸してくれと行ってくるに違いないから、今のうちに縁を切っておけ、という意味になる。
金を貸す人には金を貸すにあたっての理由や事情がある。ビジネスとして利益を得られるから金を貸す場合もあれば、なにか負い目があってその借りを返すために金を貸す場合もあるだろう。「借金」という行為は本質的にドライなものなのだ。
だから、あらためてこの「借金」という文字を「恩義」に置き換えなおしたら、さらに意味が明確になるのでは無かろうか。「恩義」は「負債」の一種だ。だから、「恩を返した。これで貸し借りなしだ」という台詞も存在する。
「恩義」を特別なものとしてそれを施した「人」と混同させるところに、冒頭に紹介した警句の問題点がある。というより、ミスディレクションがあるのだ。
義理人情の浪花節的世渡りの世界では、このように「人」にこだわった警句も成り立たないことはない。どろどろした人間関係に拘泥した人生をよしとするものはそれでよいかもしれない。その場合は、人と人とのつながりそのものがその人の人生の目的の一つだからだ。
しかし、恩義を返して貸し借りなしになった後でも、恩義を施してくれた人を忘れてはならず、その人に感謝しつづけるというのは、再度恩義を施してくれるに違いないという甘えなり下心のなせる業だ考えることも出来る。そんな感覚は、忘れてもらえない人にとっては、迷惑千万な話だろう。だからこそ、恩義を施した人のことは忘れてしまえ、という警句になっているのかもしれない。
また、永遠に恩義を受けたことについて負い目を感じなければならないとしたら、いつまでも恩義を施してくれた人の影響下から抜け出ることは出来ず、自由に自分の人生を切り開いて行くことが出来なくなる。それこそ非合理な話だ。
だから、金の貸し借りや、恩の売り買いに関して良い人間関係を保ち、尊厳のある人生の態度を貫くために、ほんとうに忘れてならないのは「恩義を施されたこと」であって、「恩義を受けた人」のことではない。
「恩義を施してくれた人」には、たしかに感謝の気持ちを抱く。それは自然な感情だ。けれど、長い人生の中では生活環境も住む場所も経済的な条件もどんどん変わっていく。余裕が出来、受けた恩義を返せる状況となり、それを返したいと思っても、恩義を施してくれた人に直接返すことが出来ない状況になっていることだってある。いや、そういう場合の方が多いだろう。
だから、「恩義を受けたこと」を忘れず、そのこと自体に感謝し、自分が出来る時に出来る範囲で、また別の人に「恩義を施」せばよいのだ。それが、結果的に「受けた恩義を返す」事になる。社会的なトータルで見れば、それで収支は合う。さらに、「恩義を受けたこと」を忘れず、「恩義を施したこと」を忘れれば、感謝の気持ちだけが残存し、また新たに自ら自然な気持ちで社会に対して「恩義を施」す気持ちが芽生えてくることにもつながるだろう。
「人」にこだわった場合は、それこそ「借金」の取り立てと同じように醜い争いや感情のしこりがつきまとう。でも「恩義」は「借金」とは違う。「恩義」のやりとりというものは、個人間での負債とは全く次元の違うレベルでとらえるべきだ。
そのことがすべての人に理解されれば、個人が社会の中で自らの責任を果たし尊厳をもって生きていく上での規範も明確になり、非条理で不合理な感情に振り回される人間関係の泥沼とは一線を画した清廉で得心のゆく人生を送ることが出来るに違いないと思う。

2006年12月23日 (土)

年賀状

ここしばらく、毎年出す年賀状は減少傾向にある。じっさいのところ、今年は、もう、年賀状は書かないでおこうかと思っていた。しかし、状差しに投げ込んであった前回の年賀状をみると、かなりの数をいただいている。それに、喪中欠礼のはがき等もたくさん来ていて、いろいろと義理のようなものも感じてしまう。結果的に、今年は4、50枚の年賀状を書くことにした。
今年書く年賀状と言うのは、来年平成19年の年賀状のことだ。で、前回の年賀状と言うのは、去年じゃなくて今年平成18年、2006年にいただいた年賀状のこと。話がややこしくて行けない。
本当は、年賀状と言うのは新年の挨拶だから、年が明けてから書くのが正式だと思う。もともとは年始の挨拶回りの代わりに書状を送って済ませたのが始まりなのだろうと想像するが、郵便制度が発達してからは、郵便局の陰謀で正月元旦に年賀状が届くことが常識のようになってしまったのだろう。とんでもない話だと思うが、文化として定着してしまっている以上仕方がない。
若い頃、特に就職してしばらくの間は年賀状の数はずいぶんと増えた。転勤が多い職場だったから、自他ともに転勤をする度に挨拶状を出したりもらったりする。その挨拶状をたよりに年賀状を書くことになってしまうからだ。結果的に特に親しくない人でも、妙な義理のようなものを感じて、律儀に年賀状をやり取りすることが多かった。まあ、親しければ普段から顔を合わすことや連絡を取ることも多いわけだから、あらためて年一度の年賀状をやり取りする必要もないのだが、おかしなもので、親しい人ほど年賀状をやり取りしたりする。無駄だと思う。
そんなわけで、いっとき、当方からはいっさい年賀状を出さず、年明けに年賀状をいただいた人に対してだけ、賀状を返していたことがあった。ところが、これでも次の年の年賀状が減らない。年賀状がいつ来たかということではなくて、年賀状をもらったと言うことのみで義理が継続されるものらしい。
本格的に年賀状の枚数が減ったのは、開発途上国での勤務となって、日本を離れてからだ。このときも国内連絡先に年賀状をいただいていたし、赴任先から年賀状を書こうと思えばかけないことはなかったのだが、国外から、しかも開発途上国からではまともに郵便物が届くことが保証できないので、二の足を踏んでしまった。だから、年賀状を出すのを再会するのは、帰国してからでも良かろうと思ったのだ。
当然、海外赴任中の2年目には、本当に親しい人以外からは年賀状は届かなかった。この人たちは普段から連絡を取っていた人たちだ。
つまり、こちらから年賀状をださなければ、年賀状はかえってくることはない。ほとんどの年賀状は、惰性か義理で継続されているものだと言うことがよく分かる出来事だった。
だから、帰国して最初の正月は、その人たちと義理のある親戚関係だけに年賀状を書いた。このことがきっかけになって、年賀状のやり取りの数は激減した。
しかし、帰国して3年目に入ると、そろそろまた、年賀状のやり取りが復活しはじめている。困ったことだ。
趣味の友人たちには、最近はメールで年賀の挨拶をやり取りすることも多いが、まだハードコピーの年賀状をいただく人もいて、これは必ずお返ししなければと思ってしまう。
問題は、職場の転勤等で新たに増えた知り合いというか、挨拶状をいただいた人たちだ。この人たちの年賀状は、印刷しただけの、まるで事務的な通知のようなものも多い。宛先もパソコン住所管理ソフトからの打ち出しで、みるからに義理で年賀状を出してるだけというのがまるわかりという賀状も多いのだ。この人たちの扱いをどうするか。思いきって切るべきか切らざるべきか、なかなか難しい問題だと思う。
転勤の挨拶状もすべてメールで処理できるような世界が早く来ないものだろうか。そうしたら、ほんとうに重要な人だけに、心を込めて時候の挨拶を出せるようになるのではないかと思う。

2006年12月22日 (金)

大腸内視鏡検査

3年ぶりに大腸内視鏡検査を受けて来た。7年前に盲腸を中心に大腸小腸を切除する手術を受けて、その後定期的に検査を受けるように指示されていたのだが、海外勤務が間に挟まったこともあって、そのままになっていた。
会社の定期健康診断でも特に指摘されるような不調はないし、まあ問題はなかろうとは思っていたのだが、やはり3年も放っておくと気になる。
というわけで、マラリア感染後、原因不明の発熱で入院した病院で検査を受けることにした。ここなら、自分のカルテが保存されている。手術をした病院はリストラで廃止されたし、手術執刀した主治医も転勤で何処にいるのか分からないので仕方がない。
そうでなくても、転勤族の場合、病院が次々と変わらざるを得ないのが難点だろう。カルテは病院ごとに作られているから、これまでの病歴や診療、手術の記録など、新しい病院では何も分からない。患者側がこれまでの病歴、手術歴、治療の状況等を申告することになるけれど、そんなものは正確かどうか判断のしようがないから、医師の側としては、ほんの参考程度にしかならないだろう。だから、検査は最初から行わなければならないし、過去の状態と比較することも出来ない。これは、診療を施す側にも受ける側にも非常に非効率だし、正確な診断をくだすにも明らかに不利に違いない。
カルテは患者のものだから、病院からその写しをもらうことができるはずだという話を聞いたことがあるように思うが、実際はどうなのだろうか。現実問題として、過去にかかっていた病院に連絡を取って、カルテを送ってもらう等と言うことは可能なのだろうか。最近は医療事務の電子化が進んでいると言う。だから、今後は病院間で患者の診療記録のやり取りなど、簡単にできるようになると思うのだが、病院からすれば患者はお得意先の客であるだろうし、顧客の囲い込みという感覚が残っていれば、そのような情報の交換は難しいだろう。
北欧の諸国では、国民の一人一人に番号をつけて、これで税金も年金も保険も全てを管理しているということを聞いたことがある。これなら、どの医療機関にかかっても、その番号から個人を識別して医療記録を一元的に管理することができるだろうけれど、現在はどうなっているのだろうか。
大腸内視鏡検査の話に戻る。検査は手術前の検査を入れるとこれで4回目のはずだ。検査は日帰りで済むが、その2、3日前から食事の制限があり、前日には下剤を服用して、ある程度便を出してしまっておかなければならない。
そして、当日は検査直前に大量の下剤を飲んで、腸内を洗い流す。これが大変だ。1時間ほどの間に2リットルの水に溶かした下剤を飲む。飲みながらトイレにかよって、排出される便が透明の水状になったら検査の準備完了となる。
前回まではこの下剤がとてつもなく不味かった。かな臭いようなしょっぱいような味で、すぐに胃袋が受け付けなくなって往生したが、今回は驚いた。なんだかスポーツドリンクのような味になっていて、それほど苦労しないでも飲めるようになっていた。医療の世界でもこういう面での進歩が著しい。看護婦さんに聞くと、2年ほど前からずいぶんと味が良くなったのだそうだ。この薬を作っている製薬会社が競争で開発改良を重ねているらしい。
それが理由と言うわけでもないだろうが、最近はエステで腸のお掃除といって、大腸内視鏡検査前の腸内洗浄と同じようなことをするところもあるそうだ。やっぱり便が透明になるまで2リットルほどの薬剤を飲ませるのだそうで、看護婦さんに言わせると、どうもあの薬剤は、この下剤と同じものじゃないかと言うことだった。こんなことをしたら、体にかなりの負担がかかると思うのだが、エステとか、民間療法と言うのは、わけが分からない。信じるものがすくわれる世界なのだろう。
検査室に入ると、検査台のベッドの上に横になり、麻酔の点滴を入れる。腸内に空気を入れて膨張させる時に痛みを生じるのを防ぐためだと言う。前に受けた時にはこんな麻酔はしなかった。病院によってやり方が違うらしい。
検査中、内視鏡の映像をモニターで見せてくれた。特に変わった所見はなく、一番奥で、大腸と小腸の継ぎ目の白い線を確認できたのが興味深かった。
本来は小腸と大腸の境に弁があるのだそうだが、自分の場合は手術で直接接合している。検査してくれた医師にこれでは内容物が逆流してしまうのではないかと聞いてみたら、そう言うことはあるけれど、それほど気にすることはないとのことだった。ただ、自分の場合は、食事の量とか内容に気をつけないと、ときどきおなかの調子を崩してしまったり戻してしまったりするのはこのせいかもしれない。
検査後は麻酔が解けるまで、約1時間ベッドに横になったままだった。
どちらにしろ今回は問題なし。これでしばらくは検査をしなくてもよさそうだ。まあ、こういう検査はできるならしたくないものだ。

2006年12月21日 (木)

チロルチョコ

嫁さんと生協スーパーに行ったら、子供のおやつコーナーにチロルチョコが置かれていた。
置かれていたというのではなくて、つるされていたというのが正確かもしれない。ひとつひとつカラフルなデザインの個包装になった小さな四角形のチョコが10個、透明プラスチックに包まれて連なって50センチくらいの長さになっている。一番上にボール紙の取っ手がついていて、そこにチロルチョコの商標デザインと製造元やトラブル時の連絡先など食品に義務づけられている情報が記されている。
これが商品棚の端っこに取り付けられたカギにずらーっとぶら下がっているのは、子供でなくても思わず目を引かれてしまう。普通の板チョコだったら、商品棚の中に積み重ねられたりしてこじんまりと収まるだけ。よほど目立つ色やデザインでも一番上か前の商品しか目に入らない。
大型の箱でもそれは同じだし、へたにカラフルにしたらかえってデザインがうるさくなって、廻りの様々な商品のノイズに隠れてめだたなくなる。第一、一箱で一種類の商品なのだから、パッケージにはそのチョコレートの姿か商品のロゴをデザインをするしかない。不二家のルックチョコレートのように中に入っているクリームが4種類ありますよなんていって絵柄を工夫しても、箱に入っている限り事情は同じだ。
ところが、このチロルチョコはご存じのとおり、どれも形は2センチ四方くらいの何の変哲もない四角形だけれど、最初から一つ一つのチョコレートが全部味を変えてつくられている。そして、その中身を反映したカラフルな個包装をそのまま強調するように並べて包装している。
集めて並べるだけでも色とりどりで楽しくなるような個包装の小さなチョコレートが、透明な袋に包まれて長くつながり、たくさん並んでぶらさがっているのだから、そのにぎやかなこと。おもわず手をのばしてさわってみたくなる。おもちゃ箱のなかにきらきらするビーズの首飾りをみつけて取り上げてみたくなる気分と同じかもしれない。
また、個包装のデザインも、これでもかというくらいきまじめに丁寧にデザインされていて、見ているだけで楽しくなる。もちろん、食品の原材料から会社の連絡先から必要なことはひととおり記されているし、それぞれの味に対応したカラフルな絵柄も好ましくて、このちいさな面積によくもまあ器用にデザインしたものだと感心してしまう。
これで、おいしくなかったら見かけ倒しの安物の駄菓子で終わってしまうのだけれど、それぞれそれなりに工夫を凝らした味が愉しめるし、最近はこうして詰め合わせたものだけではなくて、一個売りの商品もあるから、会社としても相当自信があるのだろう。
いま、コンビニで見かけるのは「冬期限定きなこもち」。レジの前にさりげなく置かれてあって、かわいらしい包装と一個10円という値段が魅力的でつい手が出てしまう。男の私でさえこれなんだから、お昼の弁当を買いに来たOLなどには、すごく人気があるだろうなあと思う。
というわけで、なにをかくそう、甘党であることもあるが、子供の頃からのチロルチョコの大ファンなのである。
この会社、いまでこそチロルチョコといっているけれど、もともとは松尾製菓という福岡の会社で、操業は明治36年、すでに100年の歴史を持つ会社らしい。ホームページもあって、今まで発売されたチロルチョコの一覧なども掲載されているので、結構愉しめる。
ページには書いていないが、20年ほど前に一度つぶれかけたことがあった。そのころ、チロルチョコは紙やプラスチックの箱に詰めて売られていたのを覚えている。なのに、中身は今と同じくひとつひとつ味も包み紙のデザインもちがう丁寧な個包装になっていて、そのこだわりというか律儀さが妙に印象に残っていた。こんな手間をかけてこだわったチョコレートなんて、他には余り見かけない。でも、値段は普通の板チョコとあまりかわりがなかったのだから不思議でならなかった。
もちろん、一箱の中には、おいしくてとてもお得感のある好みの味もあれば、なんとなくぼそぼそして手抜きをしたような味のものもあった。種類によって、製造原価がずいぶんと違うだろう。しかし、いろんな種類をうまく取り混ぜて売ることで平均単価として採算が取れるようにしているのに違いない。こういう売り方があるのだなと感心した覚えがある。
いまは、ブランドも確立しているし、それなりに採算も取れる製造工程になっているのだろう。1個10円という価格でのバラ売りも目立つようになった。一つでは物足りないひとのために、ちょっと大きめの20円サイズのチロルチョコもある。
普通の板チョコや変わり種チョコ、高級路線の特製チョコとは違う、駄菓子風といえばいいのだろうか、おもちゃ菓子のような楽しみのある商品展開は、かなり成功しているのではないだろうか。
このような形態で売られているお菓子は他にはあまりないように思う。小さなアクセサリーやフィギュアを集めることがはやったことがあるが、あれは、あくまでもおまけのコレクションで、お菓子の方はどれも同じものだった。しかし、このチロルチョコの場合は包み紙そのものがコレクションの楽しみを与えてくれそうで、自分はそれがたのしくて、このチョコレートを買い求めている気がする。
一番最近に発売されたもののうちでは、黒ごまタルトが出色の出来だ。なんだかだんだん凝り性がエスカレートしているような気がしないでもない。あんまり趣味に走ったりしては会社が傾くのではないかと心配になるが、どうかこれからも新しい味とデザインを増やしていつまでもこのチロルチョコレートを楽しませて欲しいものだと思っている。

2006年12月20日 (水)

夫を早死にさせる十箇条

ある人から、「夫を早死にさせる十箇条」というのを教えていただいた。
おそらくは、ある程度年齢を召された方への日頃の健康管理への注意喚起を、ちょっとしたユーモアを交えて紹介したものなのだろう。
もともとは、アメリカでの食のキャンペーンで紹介されたもので、ハーバード大学栄養学教授、ジーンメイヤー博士なる人が作成した資料だという。
内容をみて、あまりのことに失笑してしまいそうになった。自分一人で楽しんでいるばかりではあまりにももったいないので、その全文を引用する。
――――――――――――――――――――――
1 油付きの肉料理、バター、そしてデザートのチーズなどを出来る限り毎日、十分に食べさせる。
2 酒は欲しいだけ飲ませる。
3 毎朝目玉焼きを2,3個は食べさせる。
4 塩分の多い料理をつくり、パンもしくは白米飯を腹一杯食べさせる。
5 コーヒーや紅茶には、白砂糖を十分に入れる。
6 いつも車を使わせ、あるかせない。
7 セックスの弱さをなじり、かつ知人の出世をあげつらって、夫に挫折感を味あわせる。
8 毎晩テレビ等で夜更かしをさせ、過労で睡眠不足にして、血管系に打撃を与える。
9 休暇旅行は取らせず、ストレスを解消させない。
10収入の少ないこと、子供が優秀でない事に常に文句を言って、精神的ストレスを倍加させる。
11たばこは買い置きにして吸わせ放題にする。
――――――――――――――――――――――
いまどきこんなもの、まともに受け取ってありがたがる人間がいるのだろうか。などというと、これを教えてくれた知り合いを虚仮にすることになって心苦しいけれど、それがこの十箇条を見て瞬間的に感じたことだ。
項目内容の順不同はいいとしても、まず第一に、十箇条というのに11項目あるところからしてもう、なんともいえないうさんくささが漂っている。
内容は、成人病や生活習慣病などを悪化させないように注意すべき事の反対の生活を推奨するものとなっていて、ごく当たり前に言われていることでもあるし、一応の根拠はありそうだ。ただ、その設定が問題というかユーモアのつもりなのだろう。
だから、あえて「夫を早死にさせる十箇条」なんてタイトルをつけたのだろうが、どういうシチュエーションで、奥さんが夫にこういう生活を勧めるのかと、純粋に疑問を抱いてしまった。想像するに、この奥さんは、無知無能で仕事も出来ず愛情もないけれどよほどの資産を持っている男性と財産目当てで結婚し、非常に優雅な専業主婦生活を送りながら、ひたすら夫が死ぬのをまっているのではないか。そうでなければ、おのれ自身の身分や生活保障の観点皆無で、これほど気楽なご託を並べ立てることなど出来ようはずがない。
特に、7の、セックスの弱さをなじり、かつ知人の出世をあげつらって、夫に挫折感を味あわせる、とか、10の、収入の少ないこと、子供が優秀でない事に常に文句を言って、精神的ストレスを倍加させる、なんて、自分のこと棚に上げてあれこれ不満、批判、他人の落ち度を上げ散らかす、無知で浅はかで頭の足りない身勝手な女性のカリカチュアを見ているようだ。
その他の項目にしても、当人の健康への悪影響だけでなく、社会的常識やルールに対しての鈍感さ、他人への迷惑行為をなすことへ無責任さ、無感覚さが透けて見える。こんなことをしていれば当人ばかりでなく、それを勧めた奥さん自身の社会的評価、人間的評価さえ、傷つきかねない事柄ばかりだ。この「夫を早死にさせたい」馬鹿な脳足りんの奥さんには、そんなこともわからないという設定なのだろうか。
ジーンメイヤー博士がこの十箇条を発表した目的は、心の奥底に沸々と煮えたぎらせていた女性批判、女性蔑視やセクハラ言動の衝動をうまくオブラートに包んで、浅はかで頭の足りない愚かな女性たちに投げつけて、もくろみ通りの喝采を得ることだったのではなかろうかとさえ思えてくる。
どちらにしろ、この7と10の項目以外に書かれていることは、ごく常識的な健康に関する注意事項をことさらに誇張しただけのもので、いまさら指摘するほどのことでも無い。なんで、わざわざこんな事を強調しなければならないのかわからない。そのこと自体、この十箇条がジョークの一種だということを示していると思う。なのに、こんなものが、まことしやかに流布するというのは、どうしたことか。
よほど世間は、この手の基本的な生活上の悪習慣を、克服するどころか意識に上らせることさえも出来ないような無知蒙昧で意志薄弱な人間であふれかえっているのだろう。喫煙者や飲酒者のマナーの悪さ以前の自己中で危険な行為、飲酒運転事故が引きも切らずに発生する状況を考えたら、あながち否定することは出来ないように思う。
うがって考えてみれば、この十箇条は、浅はかな女性を馬鹿にするという目的に加えて、ここに書かれている不健康な生活習慣を持つ人間の無責任さや甘え、自己中心的でかつ自己管理が出来ない堕落した性格を批判するという隠れた意図を持っているようにも思える。もしそうであれば、ジーンメイヤー博士の深遠なるもくろみは、二重三重に成功しているわけで、筋金入りの皮肉屋の私としては、拍手喝采したくなる見事な手際だと言わざるを得ない。
この十箇条を見てなるほどと納得している人に、その隠された意図をどこまで察しているかどうか、尋ねてみるのも面白いだろうと思う。

2006年12月19日 (火)

時間とお金のトレードオフ

ひさしぶりに休日出勤のない日曜日、お昼から雨が上がったので、最寄りのスーパーマーケットまで買い物に出かけた。いつもは職場からの帰り道に車で立ち寄ってそそくさと食料を買い込むのだが、日頃の運動不足解消もかねて、15分ほどの道のりを散歩がてらに歩いてみた。
帰りの荷物のことを考えると自転車で行っても良かったのだけれど、ここ1年近く自転車置き場に放りっぱなしで手入れをしていないし、空気もすっかり抜けているはずだ。準備をすることを考えると憂鬱だし、荷物をもつのも筋トレになるだろうと考えて、歩いて行くことにした。
このスーパーマーケットは、メンバーズカードがあって、200円ごとに1点の点数を付けてくれる。その上、500円以上のお買い物でレジ袋がいらないというと、5点の点数がもらえる。点数が500点たまると500円分の金券に交換してくれる。だから、600円以上の買物をして袋をことわると、8点つまり8円も値引きしてもらったことになって、とっても得した気分になる。
だから毎回、100円ショップで手に入れた布製の手提げ袋を持参して、600円以上1000円ちょっとの間の金額で買い物をし、約1パーセントの値引きをしてもらうことにしている。でも1000円以上買うと値引率が1%以下になってしまうので、このへんの計算がむずかしい。買い物をして少し値引きしてもらって、その上脳のトレーニングまで一緒に出来てしまうのだから、自分としてはもういうことがない。
車ですこし離れたところにもっと大きなスーパーがある。ほんとうはそっちのほうが、ものによってはもう少し値段が安いし、クレジットカードで支払いが出来るので便利なのだが、職場の帰り道にあることと、いかにして効率よくポイントをためられるか毎回トライするのがうれしくて、このスーパーに通っている。
今回は、牛乳と卵とバナナを買う予定だったのだけれど、売り場を歩いているうちに、キャベツ1玉128円とティッシュペーパーの安売り5箱198円本日限り、を見つけてすごく得した気分になった。ティッシュペーパーはちょうどストックがなくなったところだったので、とてもラッキーに感じてちょっとだけ幸せになった。
独身の時もそうだったけれど、単身赴任していると自分で食料品などの買い物を頻繁にするようになる。これが結構楽しい。安いものをみつけてお金を節約した気分になれるのも、とても精神衛生にいいように思う。けれど、店によって安いものと高いものがあるので注意が必要だ。ついめんどうで、ちょっとくらい高くてもここで買った方が楽でいい、と判断してしまう。そこがスーパーの値段のつけかたの腕の見せどころなのかもしれない。でも、よく考えてみると、時間と手間をかけてわざわざ別の店まで行って買うだけの価値があるかどうか、これは十分慎重に検討する価値のある問題だと思う。
主婦の知恵と努力と称して、一円でも安いものを買うために、あちこち町中を回って買い物をするなんて話が結構ある。しかし、大根の安売りをしているからと言って隣町のスーパーまでバスで出かけたりしていては、交通費の方が高くつくし時間も労力もかかる。安いものを買ったという満足感は得られるかもしれないけれど、それでは本末転倒だ。
そんな極端な話も無いだろうが、実際、いろいろと手間をかけてあちこち探し回って安い値段で望みのものを手にいれたとしても、そのために費やした時間と労力を冷静に考えると、それが本当に安くついたのかどうか、釈然としない気持ちが残るのは否めない。これは自分自身の生活の中で、何を優先するかによってその判断基準が揺れ動くからだ。
どんなに手間と時間をかけても望みのものを安く手に入れるか、少々高くてもよいから楽に手っ取り早くその場で望みのものを手に入れるか。手間と費用、お金と時間はここでは完全にトレードオフの関係にある。どちらを選択するかは、そのひとの性格やその場での感覚、環境条件による。
たとえば自動車で移動するのに、高速道路料金がもったいないから一般道を走っていくという人がいる。時間がかかっても疲れても、渋滞に捕まっていらいらしてもかまわない場合はそうだろう。しかし、仕事の予定が入っていて時間に制限があるとか、どうしても疲れたくないとかいらいらしたくないとかいう場合は、そんな人でも迷わず高速道路を選択するはずだ。要するに、時間と快適さをお金で買うという感覚になる。鉄道で旅行する場合の特急やグリーン車の利用も全く同じ考え方で解釈が出来る。快適さと時間の節約にどれだけの価値を見いだすことが出来るかということが、判断の分かれ目になる。
時間に限定して言えば、判断の基準は、そのひとが時間あたりに稼ぐお金の高によると考えてもいいだろう。時間あたりの賃金といってもいい。だから、高給を得ている人ほど、特急列車や高速道路を躊躇無く使う。使った方が、相対的にコストパフォーマンスが高くなるからだ。
反対に、賃金の安い人は時間を節約した事による見返りが少ないから、必然的に特急列車や高速道路のコストパフォーマンスは低くなる。だから、自然とこれらを使わなくなる。また使わなくても別に支障はない。そういう人は時間だけはたっぷりある場合が多いのだから。
昔から言うように、時間がある人はお金がない、お金がある人は時間がないのだ。これは、年齢を重ねるに従って、仕事をして報酬を得るようになって、切実に感じるようになったことでもある。
しかし、もっと若い頃、学生の頃の時間の豊かさはそれとは少し違っていた。あのころの時間はお金とは必ずしもトレードオフにはなっていなかった。お金があるからと言って、特急列車を使ったり高速道路を使うことに意義を見いだしてはいなかった。
各駅停車でなければ経験できない旅の速度や出会いというものがある。一般道を走らなければ見えないものもある。そのすべてが新鮮に感じられた。費やした時間も手間も、なにひとつ無駄にはならなかったし、自分の行動のコストパフォーマンスなんて考えもしなかった。これから未来に開かれた年代の人間としては、それが普通のことだったし、そのときそのときに遭遇するあらゆる事象が何にもまして重要だった。時間と手間によって得られることが人生の中心を占めていた。
だから、時間や手間と費用の関係がトレードオフと感じるようになるのは、歳を取ってきた証拠、柔軟な感性と未来に開かれた人生を失った結果なのかもしれない。
時間や手間と費用の関係をどのように判断するかは、その人の人生に向き合う姿勢に大きく影響すると思う。

2006年12月18日 (月)

12月18日の夢

訪問先の会社か事務所へ行こうとして、地下鉄の駅に着いたところから覚えている。
交差点にある地下街入り口の階段を下りると、そこは八角形のホールのような広い空間になっていた。天井から通路の行き先を示すサインボードが下がっている。どれも黒にオレンジの文字で、なかなか未来的なしゃれた感じだけれど読みにくい。
地下鉄の改札は、緑色の文字で示されていたのですぐにわかった。左手にある切符売り場は黒を基調としたデザインで、券売機だけがステンレスの銀色に輝いている。クレジットカードを入れて乗車券を買った。乗車券は何日間か使えるフリーパスだけれど、使用距離の上限があるようで、改札を通すたびにカウントされる様になっているらしい。その説明が自動改札の横の壁に書かれていた。
丁寧なイラストつきの説明を読むと、投入されたパスは機械の中でセンサーによって確認され、認知されると機械の中に収納される。そして、かわりに新しくデータが記入されたパスが発行されて、それが手元に戻されるように出来ているらしい。なんでそんなことをするのかよくわからない。資源の無駄のように思うのだが、なにか理由があるのだろう。
自動改札を通って構内に入ると、白いボードに紫の線で地下鉄の路線図が描かれているのが目に入った。ここからだと2駅ほど先の駅で接続している私鉄路線に乗り換えることになるようだ。私鉄路線は少し細い黒い線で描かれていた。
上り線と下り線のホームに降りる階段は離れていて、ちょっとわかりにくかった。ホームに降りるとすぐに電車が来て、それに飛び乗った。電車は真っ暗なトンネルの中を走る。車内は蛍光灯の白っぽい光が薄ら寒かった。二つめの駅で降り、階段を上るとそこは乗り換える予定の私鉄駅の中だった。郊外によくあるタイプのんびりした雰囲気の駅だが、外を見ると、すぐ近くにイオンのような大きなショッピングセンターの建物がそびえ立っているのが見えた。
購入したフリーパスはこの私鉄も共通に使えるので、別に乗車券を買う必要は無く、そのまま自動改札を通って中に入った。自動改札の横には駅員がいて、のんびりと乗客の流れを見ている。何かトラブルがあったときのために配置されているのだろう。紺色の格好のいい制服に身をつつみ、小さなつばのある金色の徽章がついた制帽をかぶっていた。
この私鉄は、郊外の町と都心を結ぶ路線だ。しかし、時刻表を見ると自分が行こうとしている町へは1時間半に1本しか便がない。ちょうど前の列車が出てしまったところで、1時間以上待たなければならないことになってしまった。そうはいっても、駅のプラットホームのベンチに座ってずっと待つなんて退屈だし、時間が無駄だ。どうせなら、ショッピングセンターに立ち寄ってみようと、駅員に話して、外へ出られるかどうか聞いてみた。
駅員は、このフリーパスは乗り降り自由だから、気にしなくていい、ショッピングセンターに行くなら、ホームをとおって、反対側の改札からでるといいよ、と教えてくれたので、そちらに向かった。
ホームは一段高いところにあって、たくさんの列車が並んでいる。銀色に赤い塗り分けの流線型の電車や、白地に黄色と紺色の塗り分けが格好の良いユーロスターのような特急列車もある。自分が乗る予定のホームだけが空だった。どうやらこの駅はターミナル駅で、この駅ですべての列車が始発になるらしい。ホームの上はドーム状のガラス天井が覆っていた。
ホームをずっと歩いていくと、端の方でアイアンレースの手すりが付いた螺旋階段があった。駅は丘の上にあって、地下鉄と連絡している側の改札は地上にある。しかし反対側は高架になっていて、改札口に行くにはこの螺旋階段を下りなければならないらしい。ブロンズ色の西洋唐草模様があしらわれた凝った手すりの階段をおりると、古びた木造の駅舎に出た。昔の国鉄の田舎駅のような作りで、天井が高くペンキが何度も刷毛で塗り重ねられた痕があり、窓も時代がかった木製のサッシだった。しゃれた螺旋階段と田舎風の古びた駅舎の落差が何とも言えず奇妙だった。
てっきり駅を出たところにショッピングセンターがあると思っていたのに、そこは舗装もされていないロータリーで、黒塗りのタクシーが何台か待っているだけの、何の変哲もない田舎町の駅前の風景だった。振り向くと、高い位置に高架のホームが見える。左手の方は急な崖になっていて、この丘の上にさっき地下鉄から乗り換えた改札があるのだろう。
どこにもショッピングセンターなど無く、行くところもないので、しかたなく駅に戻って腕時計を見ると、もう次の列車が発車する5分前になっていた。
あわてて自動切符売り場に行って乗車券を買おうとしたら、何人もの人が列を作っていた。二つある券売機のうち、人数の少ないほうに並んだが、どういうわけかその列がいっこうに進まない。特に前のおばさんは、券売機の前に立ってから頭上の路線図を指で指し示して確かめたり、猫背になってずり落ちる老眼鏡を気にしながら広げた財布をのぞき込み、小銭を一つ一つ数えて取り出したりして、いっこうにはかどらない。時間がないので、だんだんといらいらしてきた。ほんとにこれは間に合うかなと思い始めた頃になってやっとおばさんが券売機の前を離れ、なんとか切符を購入することが出来た。
券売機から切符を取るやいなや、自動改札までダッシュして切符を挿入口につっこもうとして切符が折れ曲がってしまってあせった。そのうえ、あんまりあわてたので、切符が出てくる前に自動改札を出ようとして、扉にぶつかってしまった。それでもなんとか出てきた切符をつまみ取ると、こんどは螺旋階段ではなく、右手にあった普通の階段を駆け上がった。こっちの方が早く高架の上のホームにいけるはずだと知っていた。
息を切らしてなんとかホームにたどりついたのはいいが、階段の最後の段で転びそうになって足をくじきかけた。ああ、もどかしいとおもって顔をあげると、その目の前で列車の扉が閉まってしまった。結局ホームから、列車がゆっくりと駅を出て行くのを呆然と見送るしかなかった。ああ、しまったなあ、とおもってもどうしようもない。
時刻はもう夕方になっていて、これから目的の町へ行くことも出来ない。どういうわけか地下鉄はこの時間には最終便が出てしまった後になっていたので帰ることも出来なかった。
しかたがないので、駅でこの駅の近くにあるホテルを紹介してもらって泊まることにした。駅員に事情を説明して相談すると、非常に同情してくれて、それなら自分の友人の部屋がいま留守で空いているからそこに泊まれ、という。なぜか疑問にも思わず、そうすることにしてカギを渡してもらい、その部屋に行った。8階建てくらいの木造の下見板のビルで、その最上階が彼の部屋だった。
部屋は八畳くらいの長方形の板張りの部屋で、北側と東側に窓があり、入り口のドアは西南の角にあった。ベッドは東北の壁に置かれている。西側の壁は天井まで大きな本棚がしつらえてあって、様々な本、コミック雑誌やアニメキャラのフィギュア、ぬいぐるみに混じって、脱ぎ捨てた衣服やタオル、クッションなどが丸めて無造作につっこまれている。ベッドとその本棚の間はほんの手が届くくらいの距離しかないので、ベッドに座ったまま、好きな本を手にとって読むことが出来る。本棚には、アーム付きのライトも取り付けられていた。
そうこうしているうちに、部屋係のおばさんが、ドアを開けて入ってきた。掃除とベッドメーキングをしてくれるらしい。太った元気の良い世話好きそうなおばさんで、ここはいつも散らかっていて大変なのよね、という。はたきとぞうきんの入ったバケツをもって、本棚の前に行き、あなた、これ、大丈夫?といいながら、乱雑に詰め込まれた雑貨をちょっとさわると、そのとたんにクッションの上に積まれたコミック雑誌がくずれ、中から寝ていた猫が滑り落ちてきた。
あきれて見ているところで、目が覚めた。

2006年12月17日 (日)

アドバイス

中学時代、いっこうに勉強に興味を示さなかった息子は、学校再編によって出来た新設の単位制高校第一期生として高校生活のスタートを切った。
その学校を選んだのは、自宅から近いことと部活動で弓道をやってみたかったからという単純な理由だった。
進学校でもなんでもない、偏差値としても中位以下のレベルの学校。しかも単位制というある意味では実験的なカリキュラムのなかで、上級生も無くガイドとなる規範も伝統もない、先生達も手探りの学習指導という高校生活。親として不安は隠せなかった。
高校生という年齢は、これから独り立ちし社会で生きていくための素養と覚悟を身に付けておかなければならない年齢だ。高校生活を謳歌するのもいいけれど、出来ることなら最初から自分で納得のいくように未来を見据えて高校生活を送って欲しいし、進学するにしろ就職するにしろ自分の能力を最大限に引き出せるようなところへ進むための準備をして欲しい。そう願うのは、親としては誰しも同じだろう。
しかし、あれこれ勝手な期待を押しつけてもどうにもなるものではない。
結局、彼に言ったのは、「自分がどんな仕事をしたいのか早く決めたほうがいい。ターゲットが決まると、そのためにしなきゃいけないことがみえてくる。ただ、人間何もかも出来ないからね、やることを絞り込みなさい。それからね、将来好きなことをやって生きていきたいのなら、できるだけ高いレベルの能力をつけておくことが必要だよ。あとは自分で決めたことを自分で思うようにやればいい。できると思えば必ず出来るものだよ」ということだった。
最初はなんのことか、彼もよくわからなかったに違いないと思う。
ただ、彼にはアクアリウムという趣味があった。ぼんやりと、その方面に係わりながら生きていければと思っていたのだろう。そのうち生物に興味を持ち出しその教科で学校内で一番になることに意欲を燃やしだした。単位制の学校というのも良かったのだろう。自分で教科を選び、やる気のある生徒だけがその教科の授業に集まる。
クラスメートとの話のなかで、将来何をやるのかということが話題になったらしい。それを聞いて、私はもう一度同じことをアドバイスした。今度は彼はかなり真剣にアドバイスに聞き入ったようだった。
2年生の夏、彼は自分から大学のオープンキャンパスに行くといいだした。海洋関係の学科がある大学だった。
2学期になって、彼は「私には勉強と部活を両立できるだけのパワーがありませんから」と言って、あれだけ入れ込んでいた弓道部をあっさりとやめた。自分のやりたいことを絞り込むことに本気になったのだろうか。彼の性格もあるのだろうが、その割り切りかたはこちらがおろおろしてしまうくらいだった。
3年生の進学指導では、自宅から通えて海洋関係の勉強ができる大学1カ所しか受ける気はないと宣言し、こちらの心配をよそに塾にも行かず、趣味のアクアリウムの世話をし、好みのロック音楽をバックグラウンドにしてマイペースそのものの高校生活。勉強はもっぱら学校の先生に頼っていたらしい。
「おまえ、それで受験準備、大丈夫なのか」と聞くと「うるさいねえ、ちゃんとやってますから。ほっといてくれる?」のひとこと。
「落ちたらどうするんだ」と聞いたら、あたり前のように「宅浪しますからそんなに経済的負担はかけませんよ」と言ってのけるにいたっては、開いた口がふさがらなかった。
アドバイスの効果がこんな風に出るとは予想外だったが、これもまあ、彼が独立の人格を持ち始めたしるしみたいなものだったのだろう。
そんな風にして淡々と時間は過ぎ、受験を終えて希望の大学に、彼曰く「予定通り」合格し、普通に学校に通いながら、空いた時間に受験前後から始めたオーディオ自作三昧の学生生活を送っている。
「おまえ、そんなことばかりやってて、ちゃんと学校いってるのか?」と尋ねると、「心配してもらわなくても大丈夫。今、何を専攻するか決めてるところ。まじめに勉強しているよ」なのだそうだ。
たしかに彼はまだ家にいて私たちの被扶養者であることにはかわりはない。しかし、もう完全に独立の人格として自分自身の社会的な人生を歩み始めている。
いま、私は親として、なんとなく愉快でもあり腹立たしくもありうれしくもあり寂しくもあるような、なんともいいがたい複雑な気分を味わっている。

2006年12月16日 (土)

短時間睡眠の嘘

毎日夜10時半から11時頃までに就寝し、朝6時過ぎから遅くても6時半に目覚める生活をしている。だから、睡眠時間は7,8時間と言うことになる。単身赴任なので、ほぼ完全に自分のペースで生活することができるので、これが自分自身の一番自然なリズムらしい。
家族と生活していると、どうしても食事の時間をあわせたり、テレビを見たり話をしたりして刺激を受けるために、日によって就寝の時間が違ってきたりする。どちらかというと、遅い方にずれ込む。それでも、仕事に出なければならない以上、起床の時間は変わらない。結果的に睡眠時間は短くなる。
そのような場合でも、支障なく日常生活を送ることが出来ることを経験しているから、本来の睡眠時間は、7時間よりももっと少なくても良いのかもしれない、と考えるのは早計だ。確かに遙かに少ない睡眠時間で過ごせる人もいるには違いない。それは否定しない。毎日4時間の睡眠で十分だと豪語する人もいる。けれどもその実体はどうなのだろうか。
かつて、自分も毎日のように帰宅が午前様になる職場に配属されていたことがあった。家に帰り着くのが毎日午前0時30分以降、日によっては1時2時になった。だから風呂に入って就寝はどんなに早くても1時半から2時過ぎになる。それで、6時過ぎに起き、7時に家を出て駅まで20分ほど歩き。片道ほぼ1時間半の電車通勤をしていた。自宅での実質的な睡眠時間は4、5時間だった。このころはまだ週休二日ではなかったので、土曜日も出勤し、建前は半日でも結果的に丸一日の仕事となった。半年ほど後に体力の限界が来て、結核を発病した。
それでも半年持ったのは、日曜日に寝ていたからだけではない。行き帰りの満員電車の中で、吊革につかまりながら、ほとんど意識朦朧でごく短時間の睡眠を取っていたし、昼休みは30分ほどだったろうか、机に突っ伏して寝ていた。また職場で取る夕食の後しばらくは、机に向かっていてもほとんど何も考えず、ただ座っているような状態だった様に思う。
その職場は、とにかく残業することが一種の義務のようになっていたし、仕事の内容の高ではなく、職場にいることが評価の基準だった。それが会社の文化だったのだから仕方がない。実際は、職場にいる時間が長いだけで非常に効率が悪く、ミスとやり直しが続発するような仕事の仕方だったが、そのほうが評価が高かったのだから、非合理きわまりない働き方だった。今なら、まわりなど無視して早めに切り上げるか、おおっぴらに仮眠を取るだろうが、そのころはまだ下っ端の若造だったから、要領よく休息を取ることも出来ず、必要以上にくそまじめに職場のやり方に従っていた。
それはともかく、そんな生活でも、自宅での4時間ほどの睡眠に細切れの睡眠時間を加えると、6時間そこそこの睡眠時間になっていたのではないかと思う。そうでなければ、半年といえど、持つはずがない。
歴史上にも短時間の睡眠で偉業を成し遂げたという伝説を持つ人がたくさんいる。エジソンは毎日3時間しか睡眠を取らなかった。ナポレオンも同じく3時間から4時間。ニコラ・テスラにいたっては、2時間の睡眠で十分だと豪語していたという。短時間の深い睡眠を取ることによって、気力体力を十分回復し、超人的な集中力で長時間の活動を可能にすることで、彼らはあのような偉業を成し遂げることが出来たのだ、と解釈され、やはり天才、偉人は違うのだという評価が流布している。そして、それをまねようとしたり、他人にそういう生活習慣や働き方を模範とするように強制したりする人までいる。
実態は全く違う。短時間の睡眠で超人的な活動が出来たというのは、全くの嘘っぱちだ。エジソンも、ナポレオンも、実は日中、昼寝をするのが習慣になっていた。ニコラ・テスラも同じだという。1回の昼寝は2,3時間ほど。それを日に2回から3回取ったそうだ。つまり、トータルで7,8時間の睡眠を取っていたことになる。
考えてみればあたりまえのことだ。人間の生理的な限界にそう例外があるはずはない。非常に特異な体質の人もいることは確かだろうが、その場合はただ起きている時間が長いというだけの話だろう。頭脳と精神を使う創造的な仕事を恒常的に続けるために、脳に十分な休息を与えないでいられるはずがない。できるとしたら、それはおそらく覚醒剤などの人工的な刺激によってのみ可能なことだろう。しかし、その場合は一定の期間の後に、猛烈な副作用なり後遺症なりが現れ、最悪の場合は廃人となってしまうだろうけれど。
だから、短い睡眠時間で十分だというのは、一回あたりの睡眠時間に関してのことであって、一日のトータルでの睡眠時間のことではない。ここに注意しなければならない。
だれでも感じていることだろうが、起き抜けはともかく、睡眠を取って脳を休めた後は、しばらくの間は頭がすっきりとさえて、集中力も高まり仕事がはかどるし、物事もうまく進む。これは気分の問題だけのことではなく、生理的なものであるという。短時間しか睡眠を取らなかったと言われている天才や偉人たちは、その効果を利用したのではないだろうか。つまり、一日のうちに、睡眠をとったあとのさわやかな頭を何度も作り出すために、短時間の睡眠を何回かに分けて取ったのだ。
しかし、それは、高能率で仕事をしなければならないという必要性があったからこそ出来たことではないかと思う。経験から言って、やはり布団に横になってぐっすりと連続して7,8時間の睡眠を取るほうが、ずっと人間らしく、快適に生活を送れると思う。でも、自分がかつての職場で経験したように、トータルの睡眠時間さえある程度確保できていれば、ほんのこまぎれの睡眠をかき集めても、一定の期間はなんとか体と脳を維持できないことはない。だから、そういう生活の仕方もあることは否定はしない。
問題は、そのような生活を理想と称して他人に強要することだろう。世の中には、精神力と根性で徹夜を続けることを誇りのように思い、推奨、強要するような会社幹部や管理職がいくらもいる。そういう人の生活や働き方は、一見超人的なようにも見えるが、よくよく観察していると、他人にそのような働き方を求めているだけで、自分自身は出勤時間が遅かったり、公用車での移動時を休息睡眠に当てていたり、部下に見えないところでの休息を取っていたり、早朝型を標榜する人は部下より仕事を切り上げる時間が早かったり、様々な形でトータルの睡眠時間を稼いでいる事が多い。それが実態だ。
人間というものは、そんなに極端に標準からはずれた生活や働き方を続けることは出来ない。生理的な限界には例外はない。
必要以上に精神や根性を強調して、極端な生活や活動を推奨したり強要する様な人は、その実態を疑ってかかる方がよい。

2006年12月15日 (金)

12月15日の夢

どこかアフリカの国だろうか、やっとのことで何かの取り決めに関する交渉の会議を終わって、疲れ切り、風呂に入りに行くところから覚えている。
雑多な建物や商店が建ち並ぶ通りの中にその風呂屋はあった。コンクリート造りの建物で、入り口の頭上に薄汚れた白い板に緑のアラビア文字が書かれた雲形の看板がかかっていた。アラブ文化圏にある蒸し風呂、トルコ風呂みたいな雰囲気の風呂屋だった。
入り口をはいると、いきなり薄黒く汚れたコンクリート壁の階段を地下に降りる。途中で右に曲がる踊り場の所に、目鼻立ちが大きくてカールした黒い髪を肩のあたりまで伸ばした黒人の女がいた。不機嫌そうな表情をして壁にもたれて立っている。こちらをみても、にこりともしない。この共同浴場の店番の様な役目をしているのだろう。赤に黄色っぽい唐草模様を散らしたチャイナ服のようなワンピースを着て、手首にビーズのブレスレットをしていた。
彼女が、腕組みをしたまま、値踏みをするようにこちらをみて、それからあごの先で脱衣場のあるところを示した。脱衣場は濃い茶色をした板張りで、かなり木材が古びている。もう長い間ワックスをかけていないらしかった。壁に、木の板でつくったロッカーがある。一応扉は付いているけれど、カギはない。どれを使うかは自由のようだったので、ちょうど胸の高さあたりの、右の壁から3つめを選んで使う事にした。箱の大きさは余り大きくはなく、服を脱いでそこに詰め込むとぎっしりになった。カギはない。客が風呂に入っている間、さっきの女がロッカーを見張っているのだろう。とりあえず扉に付いていた札を持って、浴場の中に入る。
ドアをあけると、そこは玄武岩のような石材が張られた洞窟のようなつくりだった。左手の壁に蛇口がならんだ岩棚が続いている。ここで体を洗うのだろう。右手には、少しずつ高さを変えて岩が彫り込まれた四角い浴槽が並び、白いお湯がたたえられている。浴場の中は湯気がもうもうと立ちこめて、低くなっている奥の方はかすんで見えた。
客は自分一人だった。一番入り口に近い岩棚を選んで体を洗った。洗面器も何もない。岩棚の前に座って上の樋から落ちてくるお湯を頭にうけながら、そばにあったボディーシャンプーを体に塗りたくって手でこすりつけた。そのうちにいたずら心を起こして、誰もいないのをいいことに、つぎつぎに場所を変えて、ほとんどの岩棚で順番に体を洗っていった。そうこうしているうちにたくさんの人が浴場に入ってきて、だいぶ混み合ってきた。浴槽に浸かってあたたまると汗がふきだして顔をつたった。
だんだんと熱くのぼせてきたので、そろそろいいか、と浴場を出て脱衣場に行くと、木のロッカーはすべて埋まっていて、自分がつかっていたところがどこかわからなかった。たしかここだとおもって、札をたしかめたのだが、別人の着物が入っている。勘違いしたかと思って、となりのロッカーを見ても違う。
着物のポケットには財布も入っている。中にはかなりの現金と免許証やクレジットカードも入れてあった。これはこまったことになったとおろおろしていると、店番の黒人の女が、「さっき、役人が見回りに来てあんたの服を持ってったよ。なにか取り調べるから連絡しろってさ」と言って、壁の張り紙を片手でばんと叩いた。張り紙には、イラストつきで、問題があったときは、階段の踊り場にある電話を使って、これこれの番号に連絡するようにと英語で書かれていた。
裸ではどうしようもない。脱衣場の隅を見るとボックスにガウンのような者があったので、それを引っかけて、踊り場に戻って電話をかけた。黒人の女は相変わらずぶすっとした表情で、僕がすることを関心なさそうな目で見ている。電話には、張り紙にあった番号の他に、なぜか自分がこの国で仕事をするときの受け入れ事務所の電話番号もあった。困ったことになったとおもっていたので、まずそちらに電話して事情を話すと、担当者がすぐにそちらに行くという。
そのまま電話の前で待っていると、びっくりするくらい早く、担当の女性がやってきた。えんじ色のワンピースを着て髪をひっつめにしたとても理知的な、目の動きの速い女性だった。店番の女を一瞥して、開口一番「あの女にチップを渡さなかったのね?だからよ」と言われた。そんなことはちっとも知らなかったので、びっくりした。
彼女は、「こういう事はこの国ではしょっちゅうよ。役人が、この町の仕組みをよく知らないよそ者に言いがかりをつけて小遣い稼ぎをしてるの。汚職小役人の役得みたいなものね。ただ、彼ら、バックに大物がいるから、対応を間違えると大変なの。とにかく、連絡してみましょう。」というと、受話器を取ってダイヤルし、なにやら現地語で話しながらメモをとった。
「あなたの着物と財布を預かってるそうよ。なにかしらないけれど、違反だとか何とか言いがかりをつけていたわ。返却して欲しかったら、役所に来いと言ってるわ。賄賂がめあてね。一緒に行って交渉してあげるから大丈夫よ。ただ、出費は覚悟してね」と僕の目を見て言うと、彼女は店番の女をもういちどちらと見てから、さっと階段を上がり風呂屋の入り口をでた。あわてて後を追いかける。外の通りに出ると、太陽の光がまぶしかった。
役所は、古い木造の建物で、熱帯らしく窓も扉も開け放しだったが、どの窓にも黒くて太い鉄格子がはまっていた。中にはいると、壁には土が塗られていて、思ったより薄暗い。広い部屋に細長い机が2列に並べられていて、カーキ色の制服を着た坊主頭の黒人が座っていた。でっぷりと太って、唇の厚さと白目が充血しているのが目についた。机のわきには私の着物が丸めておかれ、太い手で黄色い皮の財布をつかんで押さえている。
私たちが入ってくるとの見ると、現地語でなにか言った。彼女が「座れ、といってるのよ」と言うので、椅子を引き、役人の黒人と机を挟んで向き合って座った。私は言葉がわからないのでどうしようもない。とにかく、彼女に、その財布の中には全財産とカードや身分証明書が入っているから、返してもらわないと困ることを伝えてくれるように頼んだ。
彼女は、「わかってるわ。まかせて」というと、相手を目を見ながら慎重に言葉を選んで話し出した。となりにも同じように交渉している人たちがいる。かれらの前には銀色のマイクが置いてあった。机からフレキシブルの金属のパイプが伸びて、先端に丸い編み籠のような球体がついている。興奮して言い合っているし、マイクを通した声が拡張されて響くのでうるさくてしかたがない。おかげで、私たちのやりとりはほとんど聞こえない。相手も業を煮やしたようで、もうひとつの机に移動することになった。
それで、やっと話が聞こえるようになったが、もちろん私には一言もわからない。ただ、相手がだんだんと興奮して来るのが手に取るようにわかって、これはまずいな、と感じ始めた。
彼女は、そこでいったん相手との話をやめて、私の方を向くと、「外国人があの浴場を利用するのは違反だと言ってるのよ。それで、財布と着物を返して欲しかったら、5万払えっていってるわ」という。そういわれてもお金はすべて財布の中だ。
「さからっちゃだめよ。言いがかりをつけられて拘留されることだってあるから。払える?」と重ねて聞かれたので、「このとおり、何にも持ってないよ。あの財布の中にあるお金から払うのなら足りると思うけど」というと、「それでいいわ」といって、また現地語で交渉し始めた。
しばらく、やりとりをしていたが、黒人の役人は、私がもう何も持っていないことに納得したのだろうか、いきなり席を立つと、現地語でなにやら言い捨て、着物と財布を置いたまま部屋を出て行ってしまった。
「これでおわりよ。とにかく、着物と財布はもどってきたから、これで満足しないとだめよ。財布の中に入っていた現金はあきらめて」と、うんざりしたような表情で言うと、彼女は、机の上の着物と財布を取って、私に渡してくれた。
「着物、来なさいな。そのガウン来たままだと、また言いがかりつけられて、拘留されるわよ」というので、あわててその場で着物を着替えながら、彼女に何度もお礼を言うと、「これで済んでよかったわ。あなたラッキーよ」と、ちょっとだけほほえんだ。
建物を出て、一緒に通りを歩きながら、もう一度お礼を言い、なにかお礼をしたいと申し出たら、「いいのよ、毎度のことだし。それにあなた、もうなにも持ってないでしょ」と苦笑いしているようだった。それから、市電の駅まで行ってそこで別れ、妻が待っているホテルに帰った。
ホテルの部屋で、財布を取り出し、中身を調べてみると、現金はもちろんすべて無くなっていたが、免許証や身分証明書、メモなどはそのままだった。しかし、3枚あったクレジットカードはやっぱり抜き取られていた。この国でクレジットカードが使えるところは限られているが、一刻も早く使用停止の手続きをとらないと大変なことになるかもしれない。妻にせき立てられて、緊急時の連絡先を書き留めてあったノートを開き、カード会社の電話番号を調べて、国際電話をかけ始めた。最初の会社は話し中だった。次の会社は呼び出し音がするのだが、いくら待っても相手がでない。3つめの会社の電話も呼び出し音がずっと続く。困ったなと思いながら呼び出し音を聞いているところで目が覚めた。

2006年12月14日 (木)

大過なく過ごさせていただき……

昔は、転勤の挨拶状や送別会などで、よく「みなさまのご指導よろしきを得て大過なく過ごさせていただき、感謝に堪えません」という言葉を見たり聞いたりした。いまでも年輩の方などにはこういう言い方が普通なのではないか。
この言い方がけしからぬという目くじらを立てる人がいる。とにかくこういう表現をする人間の性根はどうしようもなく官僚的なのだ、「大過なく」が重要なのではない、「たいした功もなく」が問題なのだ、と頭から湯気をたて目を剥いて怒り狂ったりする。
実を言うと、私も若いときはそうだった。成果を上げることをしないで、ただ無事無難に過ごすだけでは仕事をしたとは言えないではないか。「ご指導よろしきを得て」という卑屈な社交辞令を言わないとおさまらない日本的社会の悪習を考慮したとしても、そんなことを恥ずかしげもなく公言し、同僚に感謝の意を表するなんて、どこか意識がずれていると感じたものだった。
実際、このような挨拶をするのは、たいがいはろくに仕事もせず、また、仕事をする能力もなく、のらりくらりと物事を先送りし、とにかく事なかれ主義、なにごともなく過ぎればそれでよい、という態度の人が多かった。なにか仕事を任されても、要求された成果をあげることもなく、なし崩しにしてうやむやにしてしまう。そうすれば、目に見える失敗はしないから、減点主義の職場では頼りにならないやつだと思われても、極端に非難されるようなことはない。だが、決して成果を上げることも会社の業績に貢献することもない。それどころか自分自身は安全圏に身を置いて、他人の仕事のやり方に文句をつけたり、上げた成果のあらを探して批判するばかりで、人間としても最低の連中が多いように思うことが多かった。
しかし、自分自身も歳を取り、それなりの責任を任されるようになって、この「大過なく過ごさせていただき」の意味を、もういちどじっくりと考えるようになった。
若いときは、職場全体のマネジメントに関わる責任など無い。だから自分自身のパフォーマンスだけを考えて成果をあげることに集中していれば良かった。そこでは、「功をあげること」が何よりも優先される。けれども、会社全体の経営を考えた場合、特に現場作業を持つ職場では、この「大過なく」というのは非常に大きな意味を持っている。そこでは安全を確保すること、事故を起こさないことが最優先となる。
もちろん、作業の効率を上げてコストを削減し、利益を上げることが経営の目標であることは間違いない。しかし、一度事故が起きたら、作業効率を上げて得られた利益など吹き飛んでしまうくらいの損害を被ることになる。死亡事故は言うに及ばず、負傷であったとしても、しばらくの間はその現場の作業は休止を余儀なくされる。休止による作業の遅れは大きな経済的損失を伴う。また負傷した職員は回復するまで休業することになるし、代わりの人間をすぐに補充することはむずかしい。もちろん休業中の給料は保証しなければならないうえに、事故を起こしたことによって、会社が支払う保険料率も上昇することになり、トータルとして経営に与えるマイナスの影響はとてつもなく大きくなる。
任された職場が安全に運営され事故が無かったということは、任期を終えた職場マネージャーにとっては、まず一等最初に誇れることだ。だから、そのことを、転勤の挨拶に当たって公言する気持ちはわからないこともない。それが職場マネジメントにおいて最低限確保すべき基本的事項であったとしてもだ。
問題は、この「大過なく」が、ほんとうに職場マネジメントの立場から発せられたものなのか、ただそう言っている個人の範囲での「大過なく」なのか、だろう。マネジメントの立場にあった人間がその言葉を発した場合は、当たり前のことだし、特に賞賛されることではないにしろ、認めることが出来る。これは、職場の基本として、おろそかにすることの出来ないことだし、職場マネージャーとして同僚に安全を守り抜いたことについての感謝の意を述べているのだから。もっともその場合は、「皆様のご指導よろしきを得て」ではなく、「皆様のご協力、ご努力のおかげで」というのが正解だろう。
ただ、やはり、マネジメントの立場にも無いような人間が「大過なく」などと抜かした場合は、その人間の能力と人格を疑った方がよいだろうし、それ以前に職場にそういう言葉を言わなければならないような雰囲気があるのなら、直ちに改善するように手をうつべきだ。そんな職場は、多かれ少なかれ、冒頭に述べたような事なかれ主義の官僚的人間が大半を占める、それこそ「たいした功もなく」が問題になるような職場であるに違いない。
転勤の挨拶一つとっても、その人間の力量と人格が伺われるものだし、また、職場の体質やその行く末さえも想像できるものだ。十分に注意して、どのような言葉が発せられたのか、発せざるを得なかったのか、そのあたりをよく観察していれば、職場マネジメントの舵を的確に取るために価値のある情報となるだろう。

2006年12月13日 (水)

12月13日の夢

どうやら引っ越しの荷造りをしているらしい。
何人かでチームを組み、ホテルに長期滞在して仕事をしている。それが終了して、機材や私物をまとめて送り返す準備を進めているところらしかった。
自分の部屋は4畳半くらいの窓が一つあるだけの簡単な部屋で、壁際に木製の粗末なベッドがあった。ふたを開けた段ボール箱があちこちに置かれ、書類や雑貨を仕分けして次々に放り込んでいく。しかし、どの箱に何を入れたらいいのか、ものを手に取るたびに迷って時間がかかる。
押し入れから薄水色のサムソナイト製スーツケースがでてきた。この中には最低限の衣料品と書類やパスポートなどの貴重品を入れてあるので、手持ちで移動することになる。スーツケースはずいぶんと使ってきたものなので、たくさん傷がついているし、あちこちに飛行場で貼り付けられたセキュリティーチェックのシールが目立つ。半分くらいはがれかかって汚れているのでみっともないが、綺麗にはがすのにはきっと溶剤が必要だろう。
ある程度片付いて、それぞれの段ボールに自分の名前の付いたラベルを貼り付け、台車に乗せて廊下を運び、エレベーターに乗った。階下のホールが集荷場所に指定されていて、そこで業者が荷物をまとめて運び出すことになっていた。
ホールにはいると、みんなの荷物がごった返していた。地下の駐車場に連絡する大きな荷物用エレベーターの中に、黒い革ジャンパーを着た業者の作業員がいて、次々に箱を運び入れている。個人別に整理してまとめておかないとあとで荷下ろしするときに困るのではないかと思ったけれど、それはお構いなしのように見えた。ラベルがあるからいいのだろう。
廻りを見回すと、運んできた段ボールの他に、まだ荷造りされていない細々したものが散らばっているのに気がついた。床はその雑貨類や段ボールの切れ端や荷造りひも、ガムテープなどで足の踏み場もない。ここでいらないものと仕分けして捨てるつもりの人もいるらしい。
見ると、最近母親が送ってきてくれたお菓子の箱詰めが見つかった。半分食べかけたクッキーが入っている紺色の缶と、まだ手をつけていない和菓子の薄黄色い和紙柄の紙箱があった。他にもスプーンや扇子、鉛筆やペンなどの文房具類を入れたケースがあった。これに別々にひもをかけて荷物にするわけにもいかないし、どうしたものかと考えていると、仲間が「この箱、使えるよ」といって、床の荷物の間から段ボール箱を引っ張り出してくれた。袋菓子が入っていた段ボールらしく、縦長の形をして、緑と赤のインクで商品の包装のイラストが印刷されていた。ちょっと端っこが破れて型くずれしているけれど、ガムテープで補強すれば十分使えそうだ。ありがたくいただいて使うことにした。
それでもお菓子の箱2つに文房具、それから細々した雑貨類をすべて納めることはとても無理だった。しかたなく、お菓子の箱をあけて、食べかけのクッキーを和菓子の箱に無理矢理詰め合わせて一つにし、何とか収めて段ボールに入れた。ふたを閉じるのに、手近にあったセロテープを使って何カ所も貼り付けようとしたけれど、接着力が弱くて膨らんだふたを押さえることが出来ない。これは上からひもをかけるべきかなと、ぼやけた頭でしばらく考えて、やっとガムテープでとめればいいことに気がついた。
頭をあげて見渡すと、積み上がった段ボールの荷物の上に、茶色や黒の紙製や透明のプラスチック製や布製のガムテープがいくつも転がっていた。手に取ってみると、いちどベニヤ板などの固定に使ったものをはがしてまき直したものらしく、皺だらけだし接着力も弱くなっている。ところどころ紙や布の基材がめくれて薄くなっているところもあるという不良品だった。一瞬どうしようかと迷ってしまったが、結局、その悪い部分をすてて、内側の良いところだけを使うことにし、布製の状態の良さそうなもので箱のふたを閉じた。
閉じてからまた床をみると、古い蒸気機関車のプラモデルキットの箱が目に付いた。子供のころ買って作りかけてそのままになっていたものだった。ふたを開けてみると、まだランナーにつながったままの部品が出てきた。赤いプラスチックで、客車や機関車のパーツが綺麗にモールドされている。組み立て説明書が底に入っているのも見えるし、これといった傷みはないようだった。少し大きめだがじゃまになるほどでもなさそうだし、改造して走らせることも出来そうだ。それになんと言っても、いまではこんなものは手に入らない。これも持って行きたいと考えて、ふたを閉じ、つぶされるとこまるので、壊れ物だとわかるように、箱そのままの上に麻の荷造りひもをかけて結んで小包風にした。
荷物はそのころにはほとんど無くなっていて、作業員の人が手際よく、こまごましものをエレベーターの中に運び込んでいる。エレベーターの中の壁は黒かったけれど、上から白っぽい蛍光灯の光が明るく照らしている。薄暗いホールからエレベーターの方を見るとハレーションがかかったように見えてまぶしかった。
そこで目が覚めた。

2006年12月12日 (火)

模型工作は製作それとも制作?

久方ぶりに模型工作をした。工作机に向かって、カッターナイフでプラスチック板を切り出し、ドリルで孔を明け、接着して形を作っていくなんてことは、何ヶ月ぶりだろうか。プラチックが削られる匂い、鼻をつく接着剤の匂いがここちよい。手を動かす間に脳が活性化していくのが感じられる。ほとんど模型工作リハビリテーションのようだった。
作ったのは小さなレールカー。鉄道のレールの上を足踏み式の動力で走るトロッコの模型だ。種にしたのは、もう10年ほど前に手に入れて、ずっと暖めていたプラスチック製の小さなおもちゃ。ゼンマイ仕掛けで、レオタード姿のお姉さんが自転車タイプのフィットネスマシンを一生懸命こぐ。これに車輪をつけてモーター化し、HOゲージ(16.5ミリ幅)の線路の上を走らせるようにした。お姉さんが一生懸命ペダルをこぐ仕組みと車輪を回す仕組みを連動させなければならないのが一苦労、というよりその構造を考えるのがとても楽しかった。
ちょっとした工作なので、ちゃんとした設計図は描かない。しかし、最初に加工するおもちゃの構造を調べ、ギヤの位置やモーターを納められそうな空間の大きさを採寸する。それから、ため込んだギヤやねじなどの部品箱やジャンクボックスから使えそうな部品を拾い出して、その大きさを測った。ギヤを組み合わせる構造なのだから、ちゃんと機能させるためにはギヤの歯のかみ合わせやモーターの位置などはしっかりと計算して、簡単でもいいから軸孔や本体に組み合わせる部材の位置を示したスケッチを描いておかなければ工作が出来ない。
本来なら、定規やコンパスを使い、グラフ用紙にきちんと製図したり、パソコンのソフトを使って製図して設計すれば失敗の無い工作が出来る。でも、そんなことをするのは面倒だし、考えながら手を動かす楽しみを味わうには、ラフなスケッチ一枚で粘土細工をこねるように工作するのが一番だ。それが楽しくて、工作をやっているようなものだ。
工業製品はきちんとした設計図に従って作られる。そうしないと正確な製品を大量に生産することが出来ない。それは、製作であって制作ではない。「製作」を辞書でひくと、「ものをつくること。また、つくったもの」とある。つまり、予め決められた設計図と工作方法によって、部品を作り組み立てることを言う。それに対して「制作」は、「定めつくること。かんがえ定めること。美術品や映画・放送番組・レコードなどをつくること。また、その作品」と書かれている。自分がほんとうに楽しみたいのは「制作」の方なのだろう。
工業製品や建築などでは、考え工夫する過程と現実に素材を加工してものをつくる過程が別々になっている。設計の過程と製作の過程がそれだ。もちろん、手を動かしてものをつくる製作の過程はそれ自体、十分に楽しい作業だ。でも、考え工夫しながらものをつくっていくことはもっと楽しい。だから、その両方を同時に味わうには、必要最低限の部分の設計だけをして、細かな部分は現物あわせで手を動かすことになる。そうすると、作業を進めるに従って、思いもよらなかったアイデアが次々と浮かんで、どんどんと形や構造が洗練されていく。その過程自体が楽しい。それが「制作」ということなのかもしれないと思う。
とるにたりないおもちゃの工作を、美術作品の制作と引き比べるのはおこがましいような気もするけれど、自分のなかではなんのこだわりも区別もない。それが、お姉さんの人形がレオタード姿で一生懸命ペダルをこいでレールの上を走る小さなおもちゃの工作であろうと、そこに工夫と創造の過程があるならば、それは立派に「制作」と呼ばれる資格があるのではないかと思っている。

2006年12月11日 (月)

合理的な仕事の仕方

2005年4月に起こった福知山線脱線衝突事故で救助活動に当たったレスキュー隊と現場に駆けつけた医師の仕事ぶりを伝えた記事を読んだ。その中で、これこそ本当に効果を上げる合理的な仕事の仕方だな、と何度も読み返す一文があった。
「レスキュー隊は、自分たちの疲労を考慮して、規則正しく交代しつつ生存者の一刻も早い救助に全力を注ぐ。また、途中で現場に 入った医師は、手早く医療を行う順番を見定めて、被害者に点滴を施した」
レスキュー隊は、一刻も早く被害者を救助するために、寸暇を惜しんで休息も取らず全員一丸となって救助活動に従事したのではない。自分たちの疲労を考慮して、規則正しく休息を取りながら、交代で救助活動に当たったのだ。
こんなに冷静に事に当たられては、ドラマにもスペクタクルにもならない。プロジェクトX的な劇的感動を期待する向きには、期待はずれもはなはだしい仕事の仕方であったろう。その証拠に、近隣の住民の献身的な救助手助けは大きく報道されたし、JR職員の対応のまずさもこれでもかと報道された。でも、救助活動の困難さは報道されても、シフトを組んで淡々とかつ非常に効率的効果的に行われた救助の作業の仕方や、医師が手当をする被害者の選別を行ったことについては触れられることはなかったように思う。
思うに、こういう淡々とした救助活動は、さぞかし熱血マスコミや野次馬たちの逆鱗に触れたことであろう。何を悠長な対応をしているのか、この緊急事態に何をしているのか、不眠不休で体力の限界まで全精力を使い果たすまで救助を行うべきだ、おまえらが交代でのんびりと休憩している間に息絶えていく人もいるのだぞ、とわめき散らす輩の姿が目に見えるようだ。
能力を発揮しつつ効率を上げるためには、そんな精神論的、感情論的な対応は百害あって一利なしであることは言うまでもない。人間は適度な間隔を置いて休まなければ、体力も集中力も低下する。そうなれば当然ミスも起こりうるし、作業の効率も低下する。そんな状態で、ハードである上に正確で繊細な作業を要求される救助活動がまともに実行されると考える方が異常だろう。根性と感動でものごとが好転することなどない。必要なのは、手持ちの資源をいかに効率的、合理的に使用し最大限の能力を発揮させるかという、冷静な計算と判断だ。しかし、一部の人間はそんなことはお構いなしに、レスキュー隊員の ‘のんびりした’救助活動の仕方を糾弾したことだろう。
医師の態度にも非難を浴びせかけたに違いない。医師は、負傷の度合いを見て、ある被害者をほったらかして他の被害者の手当を優先する、という差別を行ったのだから。平等論者、感情論者には、それこそ恰好の攻撃の的になったはずだ。
緊急事態には、出来るだけたくさんの人の命を救うために、負傷者の状況を瞬時に判断し、医療を施す順番を決める手続きが必須となる。これはトリアージという言葉で知られている。この判断が出来なければ、いたずらに犠牲者の数を増やすだけのことになる。ここで問題になるのは、特定の個人の命か、それとも多数の命かという選択だ。救急医療に係れる医者、人材、機材が限られる中で、合理的、理性的な判断をした場合の結果は自ずから明らかだろう。
しかし、これではドラマにはならないのである。当然、感動もない。淡々と事が運んでいくにすぎない。だが、その効率と結果は最善のものが期待できる。
一般大衆や、マスコミが期待するのは、レスキュー隊が自分の体力と能力をも顧みず、限界を超えたコンディションで集中力の欠如からミスを続発し、必要以上に時間をかけながら、次第に弱っていく被害者をはげましつつ困難を乗り越えて救出し、医者も限界に達した混乱の中、それが結果的により多数の命を犠牲にすることになることも判断出来ず、目の前にある被害者に次から次へともてる限りの力をもって医療を施していく感動的な救出劇だ。冷静に判断するならば、これは感動を演出し喝采を得るために、凡フライを頭からつっこんで、あたかも超ファインプレイのようにキャッチするのと同じくらいばかげた行動だ。
淡々と最大の効率と効果を上げる、冷静で合理的だがドラマも感動もない行動と、緊急事態の混乱の中、限界に挑戦し限りない感動を誘うドラマチックだが現実には手際が悪く非効率で多くの犠牲者を伴わざるを得ない非合理な行動と、どちらがよいか。
私、そして私の世代以下の人間は、間違いなく前者を選ぶだろう。しかし、私から上の世代の人間はどうかわからない。彼らがいま上層部に居座っている職場の働き方の現状を観察すれば自ずから判断がつく。彼らの頭に合理的かつ冷静な発想があるとは思えない。また、毎日のマスコミの報道の姿勢を客観的に判断してみるがよい。彼らもまた、同じ考えを持った上層部の世代の思考に従って報道を行っているに違いない。
そんななかで、福知山線事故でのレスキュー隊と医師の働き方を冷静に描写した記事は、一種異様に思えた。これは絶対にマスコミの視点、団塊世代を中心とする一般大衆的思考の視点ではない。
このような記事、記述が存在することに、わずかながらの安心感と、これからの世代への希望を感じる。

2006年12月10日 (日)

消防団の通常点検

毎年行われる市の消防団の通常点検を見学してきた。
去年までは、出初め式と兼ねて正月5日に行っていたのだけれど、今年は12月10日。消防団の団員は地元に在住の方々のボランティアだから、正月初めの仕事が始まってすぐにまた休みを取らなければならないのが難しいので、出初め式はあきらめて、通常点検だけを行うことになった。世の中、考え方が合理的になってきたのだと思う。
その他にも、様々な問題が出てきている。最近は、仕事が自営業や農家で地元で仕事をしている人よりも、勤め人が多くなり、離れた町の会社に通勤している人も多い。そういう人たちが昔のように、消防団に参加することが物理的に難しいのだ。
昔は、消防団に参加しない様な人間は、地域の中で一人前とは認められなかったのだが、時代は変わった。今は消防団協力者を募集確保することが大変難しくなってきているのだという。
それでも、少し前の高度成長期時代よりは、ましになってきたという様なことも聞かれるのは、勤め先の会社や事業所の対応が少しずつ変化してきたこともあるらしい。一昔前はそれこそ民間企業は儲け一方で地元への貢献などまったく論外だった。それがすこし変わってきているらしい。行くところまで行った地元消防団の崩壊に、さすがに地域として、また、地元を対象としてビジネスを行う地元民間企業として、問題を直視しなければならない状況に来たということなのだろうか。田舎の地域社会であることも功を奏しているのかもしれない。
実際地元への貢献、特に地元消防団への理解や協力を頭から無視する様な企業がもし火災を起こしたときは、もちろん消防団は火災は延焼の恐れもあるし社会的な緊急事態への対応として出動はするけれど、他の協力的な民間企業の火災のときほどに熱心に消火活動に取り組むかどうか、それは判断がつかないところだと思う。人間は感情の動物なのだから。
それはさておき、今日の消防団の通常点検は、天候にも恵まれて、非常にスムーズにまた、きびきびと行われ、みていて大変に気持ちがよかった。消防団は建前上、民間のボランティア組織なので、消防団長は市長となる。市長を初め、消防団全員が礼服に身を固め、服装点検、機材点検、ポンプ操作模擬訓練を初め、軍隊式の半ば儀式的な号令と手続きで、一連の所作をこなしていく。緊急事態に備えるためには、こういう統制の取れた命令系統と行動が必須だ。こういうスタイルがあるからこそ、緊急の場合に迅速な行動を期待できるし、信頼をも得られるのだ。
消防団の通常点検の様子を自分の目で見、肌で感じれば、なまたれた個人の自由だとか、思想だとか、堕落した労働組合や教職員組合がわめき散らす、義務をスポイルした身勝手な権利主張ばかりのたわごとは、百害あって一利なしだということがよくわかる。
また、見逃してならないのは、制服の効果というものだろう。消防団員が、傍目にもかっこ良く見えるきりっとした礼服を着こなし、通常点検に望むことによって、本人達の士気を大いに高め、また地元へ貢献しているという誇りと尊厳を意識することが出来る。
実際の現場に置ける消火活動に着用する制服や防火服はこれとは違うけれど、それもまた、機能性とデザインを兼ね備えた、見るものに一定の格好良さを感じさせるものだ。
これは大変に重要なことだと感じる。こうでなくては、地元の緊急事態を支えようと言うボランティアの消防団のモチベーションを保つことは出来ない。人間とはそういうものなのだから。
これから、高齢化が進むに従って、いよいよ地元で働き、消防団に参加できる若手は少なくなっていくかもしれない。そのときに、どれだけ、地域を自分で守ろうとする人々が、こうした必須かつ根源的なボランティア活動に参加できるのだろうか。
余談ではあるが、団塊の世代が定年を迎えて、地域活動への参加が期待されているなどと報道されているが、彼らが地元消防団の様なボランティアに参加するかどうか、気になるところだ。
消防団の組織の成り立ちや純粋な奉仕活動の意思、そして規律的な活動内容と、高度経済成長で何もせずとも繁栄を謳歌した無責任な甘えと身勝手さに汚染された彼らの実態を引き比べて想像すると、その可能性は限りなく低いように感じられる。定年を迎えて時間の余裕とともに地域への義務を果たし、借りを返すべき立場にあるにもかかわらず、ただ、守られる権利のみを声高に主張するだけの存在になるのではないかと、暗澹たる気分を禁じ得ない。

2006年12月 9日 (土)

あるビジネスマン向けのコラム

あるビジネスマン向けのコラムに、「思いを持てばグズは直る」というテーマで居酒屋チェーン店ワタミ社長の仕事への取り組み方が紹介されていた。
彼は、その日のうちにその日の仕事を全部片付けて机の上を綺麗にしなければ気が済まない。その考え方の基本は、死を意識したことだという。
>死を意識することで、考え方は大きく変わる。今日やらなければ明日死ぬかもしれない。死んでしまったらすべきことは永久にできなくなってしまう。それなら、どんなに大変でも今日中にやり遂げよう、という思考パターンが出来上がったのだ。さらに、人生80年と考えると、365日×80年=2万9200 日。人に与えられた月日は3万日弱しかない。有限な時間だから1日1日を密度濃く生きようという発想につながっていく。(引用終わり)
これは、わかる。しかし、問題は「すべきこと」が何であるかだ。これが明確でないままに、何らかの仕事を「どんなに大変でも今日中にやり遂げよう」なんて、絶対に思わない。少なくとも私はそうだ。
さらに、その「すべきこと」と「どんなに大変でも今日中にやり遂げよう」とすることは、イコールでは無いことだってある。もし、自分の人生の中で目の前の仕事以外に「すべきこと」が明確にある場合は、そのためにお金を稼ぐこと、生活を維持するための仕事をこなすこと、これが「どんなに大変でも今日中にやり遂げよう」とすることに当たる。そういう考え方だっていい。
ワタミの社長の場合は、そこを混同している。というよりは、幸せなことに「すべきこと」が自分の会社の経営の拡大と成功で、そのための仕事が「どんなに大変でも今日中にやり遂げよう」とすることと一致している。
その証拠に、コラムの後半で、いきなり「では、どうすればすぐやるビジネスパーソンに変われるのか」という話の展開になる。なんでここで、ビジネスパーソンという発想がでてくるのだ。これでは、会社組織の中での仕事の効率性ということに話が限定されてしまう。一人の人間の生き様、人生の指針としての哲学を述べるならいざ知らず、たかが仕事のやり方くらいの事柄に「死を意識して」などという上段に振りかぶったおおげさな表現を持ち出す必要がどこにあるのか。
このコラムの目的からして、仕方のないことでもあるのだろうが、自己改革、自己啓発という錦の御旗がはためくその影から、雇う側に取って社員に仕事を効率的に行わせるための下心が透けて見えてくる。「死の覚悟」も安く見られたものだ。
ワタミの社長の言も、今までさんざん言い古されてきた自己実現の王道理論をそのまま繰り返しているのにすぎない。しかし、自分自身の「すべきこと」を実現するという観点からは、再度耳を傾けるには値する。
要するに、自分がどうなりたいかという強い「思い」つまり「意志」を持つことが第一歩だ、これさえあれば、思い→行動→習慣→人格→運命の順に自動的に変化が訪れる、この5段階のステップを踏めば、グズな人でも変われる、というのだ。否定はしない。それどころか、そうに違いないと思っている。
気に入らないのは、この「思い」の性格や内容がどんなものであるかということに、ひとことも触れていないことだ。文脈の中でわざとぼかしている気配さえある。そしていつのまにか「すべきこと」が、「どうすればすぐやるビジネスパーソンに変われるのか」ということにすり替わってしまう。巧みな誘導方法だ。
そして、「行動が習慣になると、人格が形成され、最後には運命を変えるまでになる」と説く。これで、本来の人生の目的や人格を自ら改造して、めでたく会社組織に求められる理想的スーパービジネスマンへの変身が成功するというわけだ。
そんな運命が理想かどうか、ビジネスでの成功が、唯一の「すべきこと」かどうか、それは人によってさまざまだろう。だから、自己改革、自己実現の理論をこんな形で、スーパービジネスマンを唯一推奨される目標とすることが、さも社会の一般常識みたいな顔をして、すべての人に押しつけてもらいたくないと思う。

2006年12月 8日 (金)

12月8日の夢

オーストラリア中央部の乾燥地帯を思わせる風景の中を、列車に乗って移動している。客車は大柄で、かつては最新式の立派な車両だったのだろうが、車体のペンキもはげて土埃に汚れた姿が痛々しい。内装も古びて客席のシートの縁が傷だらけになっていたり、仕切り壁や手すりのパイプも塗料が幾重にも重ね塗られてははげ落ち、を繰り返した無惨な姿をさらしている。
客席はボックス席の個室で、上段はベッドになっているが、今は跳ね上げられている。個室の片隅には洗面台もあるけれど、ほこりだらけで使われていない。土埃に汚れて半透明になった窓の外で、黄色い地面に背の低い貧弱な茂みがまばらに生える乾燥しきった風景がゆっくりと過ぎていく。
乗客はみな、この土地の人なのだろうか、粗末な身なりをした黒人の家族や、ラフな恰好をした白人バックパッカーの姿も見える。なにやら大きなまるっこい背負いかごを持った中国人のグループもいて、彼らは商売をしに行く人たちなのだろうか。みな口をつぐんでだまりこくったまま、くすんだガラス越しに窓の外の景色を眺めていた。
駅は、立派だった。かつて立派だったといった方がいいかもしれない。下見板の壁に塗られた白いペンキがひび割れ、めくれ落ちた破片が地面に散らばっていた。しかし、思わず見上げてしまうような木造の高い屋根と凝った作りの大きな窓枠が、鉄道が繁栄していた頃の趣を感じさせる。ホームは地面と同じ高さに煉瓦とモルタルを敷いただけのものだった。客車から降りるときは、出口のステップの下に駅員が踏み台を置いてくれた。
この駅から、他の乗客と一緒にバスに乗り換えた。白っぽい色に塗られた古いボンネットバスだ。いまどき、ボンネットタイプのバスなんて、どこにも走っていないだろう。乗降口のドアも客席の窓ガラスもなくなってしまっていた。よく見ると車体も内装も、もとの塗装に錆が噴いた上から白い塗料で何もかも塗りつぶされていた。不器用な刷毛塗りの跡が残る白い塗料の間からは早くも錆の色が浮き出してきている。それでも、立派に現役として使用されている機械は、壊れてうち捨てられた機械とは違う独特のエネルギー持っているのが感じられた。
バスは、もうもうと黄色い土埃を巻き上げながら土の道をひた走る。窓から乾燥しきった熱風が吹き込んでくるのが肌に心地よい。こういうときは汗が出る間もなく蒸発していくので脱水症状に気をつけなければならない。あわてて、リュックからペットボトルを取り出して、少しずつ水分を補給した。
まばらな灌木の間を抜けて走る道は、何度も折り返すように斜面を登り、平たい丘の上に着いた。西側には簡単なテントを張った屋台の店がたくさん並んでいる。その前に何台ものバスが止まって、たくさんの人が買い物をしたり、バスの廻りに集まって出発を待っていた。この地域のバスターミナルと市場を兼ねたような所らしい。北側は展望台のように開けていて、遠くまで開けるサバンナの風景のなかに、小さな村が点在しているのが眺められる。左手に井戸があって、その回りに農家の人だろうか、つるべで水をくみ上げて牛に飲ませているのが見えた。日差しが強く、遮るものがないので肌がじりじりと焼けてくる。しかし適度に風があるので、暑くは感じない。
廻りの人や風景を見ながら広場をうろうろしていると、突然、ビーズの首飾りをかけた大柄な黒人の男が話しかけてきた。あの村まで、自転車で行くツアーがあるから参加してみないか、とたすきがけにしたキルト地の鞄からパンフレットを出して熱心に勧める。この地方独特の派手なプリント柄の衣装が目立っていた。
話を聞いて、それもいいなと考え、自転車を借りて2,3時間のツアーに参加した。といっても、客は二人だけで、この黒人がガイドにつく。丘の上から下る道は快適だった。近くの村に立ち寄ったり、この地域ではここだけだという滝を見たりしてから、丘の頂上にもどった。
北西のはずれに、低い茂みの下にほそい丸木で作った柵が巡らされている広場があった。ここが駐輪場らしい。柵に自転車を立てかけ、カギをかけて返却した。
そろそろ帰らなくては、とガイドの男に言うと、荷物はあっちに預かっているからと、広場の南にある倉庫のような建物に案内された。中は薄暗くて、裸電球がともっている。中二階の床がつくられ、その上にも下にもたくさんの荷物が置かれていた。宅配便の集荷場みたいな所なのだろうか。何人もの人が忙しそうに立ち働いていた。
おまえのはこれだ、といって示された荷物は、中二階左端の梁の下に積み上げられていた。両手でやっともてるくらいの大きな段ボール箱や粗織りの布に包まれた木箱が5つもあった。いつのまにそんなに荷物を預けていたのか不思議に思ったが、自分の荷物に間違いないことだけはわかっていた。ほとんど使うことのない様な雑貨やあちこちで買い集めた民具などが入っている。なんでこんなものを持ち歩いているのかわけがわからなかった。どちらにしろ、これを手持ちで持って帰るわけにはいかないので、倉庫の作業員に荷物を下ろしてもらい、建物の入り口にある事務所で発送の手続きをした。事務所の木のカウンターの脇には昔風の分銅をつかう大型の台秤が置かれていた。
駅に戻るには、バスがなくなっていたので、また自転車を借りて乗っていくことにした。今度はガイドの男は一緒には行けないというので、地図をもらって広げてみたが、道は薄い線で示されているだけで、鉄道の線路も一般の表記の仕方とは違うらしく、どこをどう行けば駅にたどり着けるのかわからない。
そばにいた人に尋ねたら、まず南北が反対で、地図をぐるりと回し、それからしばらく指で薄い線をたどってようやっと駅の位置を示してくれた。このバスターミナルのある丘からは、121号線を通って行けばよいと言う。ほかにももっと大きな県道はあるが、遠回りになる。地図をみると、その道は何度もくねくねと曲がっていたけれど、一本道なので何とかなりそうだった。
これならいけそうだなと思って、自転車を押して歩き始めたところで目が覚めた。

2006年12月 7日 (木)

女性の管理職

最近、女性の活用こそがビジネスの成功を決めるとか、女性が活躍できる組織こそが理想的かつ競争力のある会社を作るのだとか、女性有用論がかまびすしい。女性を管理職や幹部に登用しないような会社には、未来が無いのだそうだ。
こういう記事が目についたのと、最近経験したことが相乗効果となって、今日はちょっと荒れ気味である。で、世の中の女性と女性擁護論者から総スカンを食うような文章をひとくさり書き散らす。
世の中のすべての女性を対象に話を展開しているわけではない。それでも、女性がこれを読むと、かなり気分を害するだろうことは予想がつくので、そういうのがいやなひとは読まないでほしい。などというまでもなく、もともと誰もまともに読んでいる人などいないのだろうから心配することも宣言することもないのだが、一応そういっておかないと格好が付かないのであえて記しておく。かすかに残る自尊心のはかない抵抗みたいなものか。ごまめの歯ぎしりなどという言い方もあるのを思い出した。
前置きはいい加減にして、本題に入る。
セクハラとか差別とか全く関係なく、いままで私が身近におつきあいさせていただいた、もしくはいただいている女性の管理職はほんとにたまたまのことなのだろうが、側頭部におもいきり蹴りを入れてやりたくなるような、自分を若くてかわいくて魅力的で有能だと信じ切って周りにそれにふさわしい扱いを強要する、自分勝手でわがままでヒステリーで無能な因業ババアで自己顕示欲が強く団塊世代エロジジイの権力者にいわばペットとしてもてはやされ、まわりからもちやほやされるのがあたりまえと考えているようなのばかりであった。
もちろん、世の中には立派なこの世の管理職の鑑ともなるようなすばらしい女性が星の数ほどおられると信じている。これは本当の話だ。嘘付くなという方は私の目を見て欲しい。これが心にないことを言える目かどうか、一目見ればわかっていただけると思う。
が、しかし、私は不幸にしてそういう女性の管理職にお会いしたことがない。きっと巡り合わせが悪いのだろう。もっと上品かつ詩的に、修辞学的文章作法を駆使して表現するならば、私の周りの世界は常に雨天なのだろうと考えるほか無い、とでもいうところだろうか。
そんなことはどうでもよい。問題は、彼女らのような人間といかにしてうまくおつきあいするかということだ。
結論は、単純明快。
近寄らないこと。もしどうしても関わらなければならないのなら、間違いを絶対に指摘しないこと。ミスをしても、見て見ぬふりをすること。
非常識、無知を、無条件に受け入れること。これに関しては、にんじょうざた(刃傷沙汰)という言葉を知らず、「にんじょう」を「人情」と思って得意げに話を続ける女性患部もとい幹部のメンツを保ちながらフォローするのがいかに大変か、想像することで理解していただきたい。こういうことは経験されない方が幸せだ、とだけ言っておこう。
さらに、付け加えるならば、ちやほやすること。食事をおごるなりおみやげを与えるなりして物欲を満足させてやること。ひたすらおだて上げて気に入られること。
彼女らにとって他人を評価する基準は「感情的判断」のみ。理屈は成り立たない。つまり団塊世代エロオヤジと同じ扱いをすれば間違いない。彼女らくらい、あの世代の遺伝子を色濃く継承している奴らはいない。なんといっても、あの世代に抜擢されて勘違いして偉くなったのだから、恩人のスタイルを踏襲していなけりゃおかしいというものだ。
まあ、こういう輩は女性だけじゃなくて男性にも件の団塊世代を初めとしてうんざりするほどたくさんいる。だからこれは女性管理職ひとりの問題ではない。女性管理職にその傾向が顕著であるというだけのことだ。
それよりも問題は、そんな輩が組織の幹部として大手を振ってのさばっている日本的会社組織の不条理さだ。そんな患部を抱えた組織はそのうち淘汰されるのであろうが、巻き込まれる方はたまったものではない。
というわけで、今回はまったくの色眼鏡ばりばりの本音ベースで、おもいっきり女性管理職の評価をさせていただいた。
え? 感情的すぎるって? そう、感情的になっているのだ。
たまには相手と同じレベルまで落ちて低レベルのわけのわからん言動をしてみることも必要かなと思ったまでの話だ。
最近になって改めて、事の理不尽さに怒りを禁じ得ず、理性をかなぐり捨てて感情に濁った頭が自動的に取った自己防衛行動の現れとでも考えて欲しい。
そこんとこ、わかっていただければ幸いである。

2006年12月 6日 (水)

おしっこは好奇心で臭くなる?

最近模型工作をしていない。特に仕事が立て込んでいるわけでもないのだが、やる気が起こらないといったほうがよいかもしれない。つまり、仕事も趣味もとんでもなくスローな状態になっているのだろう。年齢のせいかもしれない。
何よりも目が見えなくなってきたことが大きい。老眼のせいだ。これはまだ適当なレンズを装着することでなんとかしのげるものの、昔から症状のある飛蚊症も少しずつひどくなってきていて、視野をじゃまする。集中力がそがれることおびただしい。
などと、とにかくいいわけをして、いっこうに作業に取りかからないのは、やはり精神的に低空飛行をしているせいなのか、それとも年齢を重ねることによって好奇心が無くなり、いろんなことに興味を失ってきているのか、原因を真剣に考えることさえ面倒くさくなるのだから、これはかなりの重傷だ。
まあ、無理をしないで、趣味を楽しむ気持ちが帰ってくるまで、まずは仕事、基本的な生活、それから、この作文練習などを辛抱強く行って、以前の様に好奇心が起きてくるのを待つしかなさそうだ。
好奇心といえば、最近面白いニュースがあった。猫のおしっこがくさいのは、尿の中にある種のタンパク質が多量に含まれているせいだということが、理化学研究所と岩手大の共同研究で解明されたそうだ。腎臓で生産されるこのタンパク質が尿に含まれるある物質と化合して臭いの元となるフェニリンという物質を生産する。そのタンパク質の名前を「コーキシン」という。猫は好奇心が強いからなのだそうだけれど、何といういい加減かつユーモアのある命名か、と久方ぶりに愉快な気分になった。
このコーキシン、マーキングといって猫が自分の縄張り内のあちこちにおしっこをスプレーして臭いを付ける行為とも関係しているのか、特に発情期の雄猫に多いらしい。ところが、去勢をするとたいていの場合は、このスプレー行為をしなくなってしまう。つまり去勢をすると、コーキシンの生産も抑えられるのか、と一瞬勘違いしてしまった。よく考えればスプレー行為をしなくなったこと自体はコーキシンとは何の関係もない。しかし、スプレー行為をしなくなったのはコーキシンつまり好奇心が無くなったせいで、それは去勢されたからかもなどと想像してしまい、自分が中高年という年齢に入って好奇心が無くなったように感じることに、つい考えがおよんでしまう。
頭ではなんの関係もないのはよくわかっているのだが、なんだか気になってしかたがない。なので、トイレに行って小便をし、思わずくんくんを鼻を鳴らして臭いを嗅いでみたら、なんとなく臭いが薄くなっているような気がして、よけいに落ち込んでしまった。
これではいけない。病は気から、という言葉もある。ここは一つ、おしっこを臭くすることから、元気のもとを取り返す行動に出なければならない。というわけで、久しぶりにアスパラガスを食べてみようと思っている。ほかにもコーヒーを大量に飲むとおしっこの臭いがコーヒー臭くなる。でも、コーヒーを大量に飲むのはどうにも気が進まない。とりあえず、ネギとかニンニクとか、臭いの強そうなものを食べることから始めよう。そうしたら、好奇心も集中力も戻ってきそうな気がしないでもない。
こういうものは、実際の効きめよりもプラシーボ効果の方が高いかもしれない。信じるものは救われるのだ。それに、よく考えなくても、ネギやニンニクは滋養強壮に有用な食べ物だ。なんのことはない、歳をとってきたら、普通に健康に気を配ることから、気力体力集中力の回復維持を図ることが大切なんだという、月並みな結論に落ち着いてしまった。
けれど、これが少しでも効果を現して、また模型工作も仕事にも好奇心を持って、集中できるあの感覚を味わえるようになりたいと期待している。

2006年12月 5日 (火)

どれだけ話を膨らませられるか

「話が面白い人のちょっとした習慣術」という本に、話に深みを出す場合は、臨場感だとか描写が大事なんだ、読む側、聞く側のイメージをどれだけかき立てられるかというような、そんな表現をすること。とにかく視点を変えながら、たくさんの情報量を盛り込んで伝えることがよいのだ、というようなことが書かれていた。で、掲げられていたのが以下の例。

(話が平坦な例)
「先週、京都に行った。桜がきれいだった。哲学の道もきれいだった。残念なのは、円山公園のしだれ桜が三分咲きだったこと。夜は祇園にある旅館に泊まり、舞妓さんが歩いているのを見ることができた」

(話に深みがでる例)
「先週、京都に行った。清水寺の舞台から見ると、桜がピンク色の絨毯(じゅうたん)を広げたように見えて、幻想的だった。茶店の近くでは山桜が咲いていて、花の間から若葉が見えて可憐な感じがした。圧倒されるソメイヨシノのピンクの絨毯の中で、山桜が可憐に見えたよ」

これを見ると、陳腐な主観的描写を付け加えて独りよがりな表現をしているだけの文章のようにも感じられるが、筆者はこの例を引いて、カメラ視点で全体を言い表したり、部分を描写したり、話の視点をカメラ視点のように変えると、話に深みが出る、と力説している。
普段から、いかに簡潔に客観的に必要な情報をとりまとめて記述報告するか、ということに心を砕いてきた身としては、全く逆方向の示唆であるように感じる。しかし、ここのところ、思いつくままにどれだけタイプを叩けるかなんてトライをやってる関係上、一応この勧めに従って、例に倣い、話が平坦な例と話に深みがでる例と称して、文章をどれだけ膨らませることができるかやってみることにした。
以下がその結果である。

(話が平坦な例)
「先週、奥日光に行った。紅葉が美しかった。なかでも紅葉に彩られた華厳の滝の眺めは絶景だった。残念だったのは、日光東照宮のあたりではまだ紅葉が十分色づいていなかったことだ。夜は天皇も宿泊されたという金谷ホテルに泊まり、その歴史ある建築の風格を満喫した」

(話に深みがでる例)
「先週、奥日光に行った。次々に目に飛び込む紅葉を楽しみながら、いろは坂の急カーブを上り、明智平から眼下に連なる山々を眺めると、太陽の光に照らされて祇園山鉾のゴブラン織りを広げたように華やかな紅葉の錦が広がり、すばらしく絢爛豪華で贅沢な気分を心ゆくまで堪能することができた。中禅寺湖畔のボートハウスでは、対岸の色とりどりの山肌を背景に、ナナカマドの真っ赤な葉が青い空と水面に生え、その鮮やかさが際だっていた。まさにこれぞ歴史ある風光明媚の地、奥日光中禅寺湖にふさわしい風景だと感じ入った。また、幾重にも重なりきらめく紅葉を縦につらぬくように一筋に、太陽の光を受けて白く輝き霧を舞上げ、頭上から遙か眼下の深い滝壺に落ちゆく華厳の滝の風情は、なににもましてあでやかな中に堂々たる威風を感じさせ、これぞ神聖の地、日光の美と荘厳さを現出する絶景と、見るものの心の奥深くに染みいる光景だった。惜しむらくは帰路立ち寄った日光東照宮の近辺の紅葉がまだ十分に色づいてはいなかったことだ。しかしながら、夜は、天皇も御宿泊されたことでも有名な、和洋折衷の趣ある外観を誇る金谷ホテルに投宿し、上品に輝くクラシックな照明のもとでその由緒ある建築の歴史と風格を肌で感じる幸せを味わうことができたよ」

なんとまあ、5行の文章が18行まで膨らんだ。我ながらあきれかえる。
でも正直言って、けっこう時間がかかったし、しんどかった。同じ様なことを言うのに、手を変え品を変え表現や単語が重ならないように文章を書き込んでいくのは、パズルを解いているのと変わらない。
それに、無理矢理話を膨らませるためだけに書いたものだから、目を覆いたくなるような文章だ。これで話に深みが出たのかどうかなんて検証を行おうとすること自体おこがましい了見だ、と今更ながらに気がついたのだが、書いてしまったものを消すのはもったいないので、今回のダシに使うことにしたというわけだ。
だいたい、思いつく限りの美辞麗句と慣用表現を不器用に重ね、どうでもよいような陳腐な風景描写をこれでもかと連ねているだけのような文章に、なんの深みがあるものか。
あらためて、話が平坦な例のほうが、よほど好ましいし、自分の身の丈に合っているように感じられた。
こういう感覚は、人それぞれなのだと思う。

2006年12月 4日 (月)

しばらく前に見た夢の断片から

崖下に古く灰色になった木材で狭い棚が作られている。波に洗われ浜辺に打ち上げられた古い材木で作ったような棚だ。その上に、へこんで煤けた鍋や椀、垂れた油が焦げ付いて盛り上がり内側だけが磨かれてところどころに鉄の色が見えるフライパン、さびの浮いたスープの空き缶につっこまれたお玉やしゃもじ、ナイフやフォーク、それから古いホーロー引きのマグカップなどが所狭しと置かれていた。マグカップのホーローはあちこちぶつけたのだろうか、底や取っ手の角や縁がはがれてそこから地金のさびが茶色くしみのように広がっている。
上を見ると、崖の上から細い角材を渡してトタン波板が差し掛けられている。銹びたトタンの孔から光が差し込んで、薄暗い小屋の中の様子が見渡せた。はがれかかったベニヤ板と、これも銹び付いたトタン波板を立てかけて壁にしてある。ベニヤ板とトタンの壁で出来た部屋は2メートル四方くらいしかなくて、その狭い空間の崖側に、廃棄された自動車から取り外してきたのだろうか、表面の人工皮革がやぶれ、クッションのフォームラバーが飛び出した後部座席シートがソファのように置かれている。上には、もとは黄色かったのだろうが、ねずみ色にくすみ、茶色いしみが一面についた花柄の毛布が乱雑に広げられていた。どうやらベッドの変わりに使っているものらしい。
ジュート袋を裂き広げた粗い布をたらした入り口を出ると、そこから先は差し掛け屋根だけの吹きさらしになる。右側の崖に作られた棚には燭台やもの入れにしているらしい空き缶、箱類、袋などが乱雑に置かれ、その脇には、鉈や鍬のようにも見える得体の知れない道具が乱雑に積み上げられていた。棚の下に青い傷だらけのプラスチック製バケツや水道管の切れ端などのがらくたと並んで、銹びかけた一斗缶を見つけた。一斗缶は2つあって、一つはふたがあり、あけてみると小さなひしゃくと一緒にすこしだけ綺麗な水が入っていた。これは飲料水用らしい。もうひとつの水は白く濁っていた。これは洗い物にでも使うのだろう。
棚の上に、キャンプで使うようなガスコンロがあった。ホエブスという調理用のガスバーナーに似ている。標準タイプのものよりかなり小さめで、タンクの赤い塗装がはげた上に黒く泥と油がこびり付いていた。これは予め固形アルコールのタブレットで予熱し、タンクについているポンプを押して圧力をかけないと点火しないタイプだが、そのポンプが見あたらない。不思議に思ってタンクをひっくり返すと、裏側に黒いプラスチック製の、縁にギザギザがついた円盤のようなダイヤルが取り付けられていることがわかった。これを回して加圧するらしい。このダイヤルにもびっちりと黒い油と泥がこびり付いて、ほんとうに機能するのかも疑わしい。とにかくこのままでは手が汚れて仕方がないので、差し掛け屋根を支える木の柱に打ち込まれた釘にかかっていたぼろ切れで、ごしごしとコンロをこすって汚れを落とし、棚に戻した。
ぼろトタンの差し掛け屋根を出ると、草が生い茂った崖下の道になる。道の左下は高い石垣になっていて、どうやらこの差し掛け小屋は石垣の上の岩棚のようなところに作られているらしい。崖の上はまるで手入れのされていないジャングルのような雑木林だった。
日差しが強い。どうやら熱帯、それも乾燥地域の気候のようで、差し掛け小屋の中も道の草も乾ききっている。飲料水が少なかったのを思い出して、水をくみに行くことにした。食べ物も調達してこないといけない。そのときになって、自分が、ドンゴロスの袋に孔をあけたような上着を頭からかぶって、藤ヅルのベルトをしていることに気がついた。下はごわごわとした生地でできた大きめの野戦ズボンのようだ。大きなフラップのついたズックのもの入れをたすきがけにかけていた。もの入れの中には、ノートと鉛筆、スケッチブック、それから折りたたみ傘、懐中電灯のほか、水の入った古いペットボトルと野戦食料のようなものが入っている。とにかく、水を汲みにいかなければ、とさっき見つけた青いプラバケツを持って、道を降り出した。
石ころだらけの乾いた急な道を下ると、広い道と交差する十字路に出た。その先はまた上り坂になっていて、ちょうど緩やかな谷沿いに広い道が通っているらしい。遮るものがなく、やたらと日差しが強いので、廻りは乾燥しきってほこりっぽい風景が広がっている。
十字路の右前方に井戸らしい場所があった。何人か、黒人の男や女がカラフルな民族衣装に身をつつみ、頭に縦長の大きな瓶をのせて、井戸のまわりで水くみの順番を待っていた。男はみな坊主頭、女は赤っぽい幾何学模様の織物を頭からかぶっている。
バケツに水を汲もうと、そこへ降りていくと、集まっていた人々がいっせいにこちらを向いて無言でじっと見つめてきた。いままでおしゃべりしていたのに、奇妙なくらいに静まりかえって、いっせいにこちらの動きを目で追いかける様子は、異様な雰囲気だった。
自分がなにか変わった恰好をしているのか、それともここへ水を汲みに来ることに問題があったのか、よくわからず、おもわずたちどまって人々の顔を見返してしまった。
そのとたんに、何人かの若い男が走り寄ってきて、青いポリバケツをひったくると、並んでいた列の先頭に割り込んで、井戸のポンプを押し、なみなみと水を注いで渡してくれた。しかし、彼の目はちっとも笑っていない。まわりはまったくの沈黙のままで、不気味な静けさが取り巻いている。
いったいどうしたのかと、自分でも怖くなって、軽く頭を下げ、片手を拝むように上げて挨拶して道を戻ろうとすると、後ろから人々が声を合わせてお経を上げるような声が聞こえてきた。そのときになって、やっと自分はこの地域で一人で修行生活を送っているらしいことに気がついた。
いつのまにか、タイやビルマの坊さんが着ているような袈裟がけの修行僧のような衣装を身につけていて、頭もつるつるに剃っていることがわかった。
人々のお経の合唱の声が続く中を、細い乾ききった石ころだらけの道を、崖下の差し掛け小屋に向かって上っていくところで目が覚めた。

2006年12月 3日 (日)

紙質の問題

高校生のころ、一時、参考書を選ぶのに紙の質で選んでいたことがあった。
そのころ、チャート式数学という、なにがチャート式なのかさっぱり理解できない文句が売り物の数学の参考書が一世を風靡していて、猫も杓子もその参考書を使っていたように思う。
その紙の質が、大嫌いだった。
どちらかというときめが細かく薄手だが重く腰が強い紙で、下手に生成り色をしているのがよけいに違和感を感じさせる上に、めくる度に、ぺかんぺかんとブリキ板か安物のセルロイドの下敷きを曲げたような音がするのが徹底的に気に入らなかった。
判型が小さいタイプなので、字も結構細かいうえに、それが売りなのか、矢印やら囲み線やら、公式数式の部分やら、なにやら必要性のない色刷りが目立って、これも性に合わなかった。
結局、そのチャート式数学は、学校で勧められて、半強制的に購入させられたにもかかわらず、いっこうに真面目に読むこともなく机のかざりとなり、それとは別に自分で書店で見つけた、少し大きめの版の白っぽく柔らかめで圧手の紙質に文字が食い込んで印刷されているような、そんな感じの参考書を使っていたように思う。
本の作りというものが、これほどまでにその本を手に取るかどうかに影響するとは、自分にとっても新鮮な驚きだったように思う。
それはともかく、このチャート式数学のおかげで、いまでも数学は苦手である。
それとこれとは関係ないなんてことは、絶対にない。
ものごとの感性と好き嫌いの関係は、ふつうに想像しているよりも密なものなのだと、30年ほど前を振り返って、今更ながらに確信し、その思いは強くなるばかりだ。

2006年12月 2日 (土)

この理屈で行くと・・・

福岡で酔っ払い運転の車が家族連れの車に衝突、被害車両が海に転落し子供たちが死亡した事故の話だが、このコラムでは、橋の欄干が弱かったことのほうをよりおおきな問題としている。
なるほど、自分のことは棚に上げていろいろと難癖付けて国とか行政を叩いてカネをむしり取る方策というのはあるもんなのだなあと感心した、というのが素直な感想だ。
特にいきなりでてくる別の例というのがふるっている。

>例えば、腐食して今でも壊れそうなブランコが公園にあったとしよう。そのブランコに子供達が乗り、遊んでいた。ある子供が乗って他の子がその子の背中を押してあげた時、ブランコの金具が壊れ乗っていた子供が転倒。運悪く大怪我をしたとしたら、背中を押した子供は加害者といえるだろうか。当然ブランコの管理者が責められるはずだ。つまり、壊れる環境(ハザード)を放置したからだ。

ここには、酔っぱらい運転のように明らかな原因者である犯罪行為はない。つまりこれは意図的に論点をすりかえて、ひたすら行政側の管理者責任追求を強調するほうに注意をむけるための巧妙な例のひき方だ。このあと、アメリカの自動車火災事故の例を引いて、完全に問題認識の焦点をずらしてしまうテクニックなんか、この筆者はほんとにうらやましいくらいのミスディレクション(意図的に注意をそらせて本当の意味や行動を隠蔽してしまう技術。手品などでよく使われる言葉です)の才能を持っているなあと感心するばかりだ。
しかし、再度冷静に欄干の例に立ち戻って考えた場合、酔っぱらいの運転する車が制限速度を遙かにオーバーした速度で追突するという犯罪行為のようなことが普通におこることを当初の段階から想定していないことに問題があるという、このコラムのような理屈が行きすぎると、無料で自由に立ち入ったり利用したり出来る公共的な場所は無くなるのではないだろうか。
管理側の立場に立って言えば、すべてのひとが自由に利用できるような公共的な場所に万全の安全管理を行い事故に備えて保険をかけるには相応の費用や支出が伴う。だから、当然その場所を利用する人にそれを負担してもらわなければならないことになる。通常はこれは国民の税金から負担されるのだろうが、このコラムの論旨展開のようにただ管理者側を追いつめるだけだったら、おそらく管理者側としては最終的にはどこもかしこも有料化するか、立ち入り禁止にするほか方法が無くなる。福岡の事故とはちょっと論点がずれるかもしれないが、行動の自己責任という問題にも絡んでくることだろう。
こんな風潮が一般的になると、熊本城の石垣とか通潤橋とかのように目のくらむような高さなのに、いさぎよいくらいに転落防止柵が全くない場所を公園として立ち入りさせているところなんか、ほんとどうなるのだろう。いやはや、熊本は、そう言う意味でとってもおおらかだったなあ、なんて懐かしく思い出してしまった。
そういえば、最近、近くの公園で、熊が出没する恐れがあるので、実のなる栗の木の並木を根元からすべて伐採した、ということがあった。これなんか、典型的な行政の過剰反応なのだが、こうしないとマスコミの尻馬に乗ってえげつなく公園管理者をバッシングする人たちがたくさんいるからというのが本当のところらしい。
こういうご時世では、公園管理者の気持ちもわかるような気がする。なさけない世の中になったものだ。しかも、一番声高にクレームつけてるのはどうもご多分に漏れず、昔の学生運動の気分を懐かしんでお手軽に行政を糾弾する快感を楽しもうという魂胆の団塊世代らしいというのが、またありがちなことでうんざりという気分を倍加させてくれる。

2006年12月 1日 (金)

だしとつゆとたれ

同僚が蕎麦屋でつゆを足してもらうのに、「蕎麦のたれ、ください」と店員に注文した。
いくら何でも「蕎麦のたれ」はないだろう。どう考えたって、蕎麦につけるのは「つゆ」ではないか。一瞬言葉を遮って訂正しようかとも思ったが、店員は顔色一つ変えず、「はい」と答えると、何事もなかったように蕎麦つゆを持ってきてくれた。これはいったい何事だ、と頭が混乱しそうになった。
少なくとも、自分の常識では、麺類に「たれ」という言葉を使うことはない。
関西では麺類といえばまずうどんである。食べ方は、きつねうどんのようにどんぶりに入れたうどんに透明感のある出し汁をたっぷり注いでその上に具を乗せ、ネギやショウガなどの薬味を加えていただく。その場合はどこをどう押しても「うどんだし」としかいえない。ただ、釜揚げうどんなどでは色も味も濃いつけ汁につけていただく。「つゆ」という言葉をつかうのはこのときくらいのものだろう。だから「めんつゆ」という言葉自体、関西ではあまり一般的ではない。
「めんつゆ」という言葉を知ったのは、スーパーマーケットなどで出来合の瓶に入った「濃縮めんつゆ」が売られ出してからのことだ。これは普通のうどんだしにする場合と釜揚げうどんや蕎麦のつけ汁にする場合とで、水で希釈する割合を変えて使う。そのあたりから、何となく胡散臭く感じたものだった。
そもそも関西では、うどんの「だし」は、家庭で醤油と塩と昆布だしとみりんを合わせて煮立て、ちゃちゃっと簡単につくってしまうものだった。それで十分だったし、市販のめんつゆよりもよほどおいしかった。
もう少し時代が下って、うどんだしを簡単につくるのに粉末の袋入りうどんだしの素が売り出された。確かヒガシマルという名古屋の会社の製品で、これは今でも販売されていると思うが、関西の味とはまた少しちがう、どちらかというときしめんなどの汁に合う味だったように記憶している。
ただ、そうめんの場合は、「だし」とは言わなかった。これはいちおう、「つゆ」といったように思う。釜揚げうどんと同じように、濃い目につくったつけ汁につけて食べるからだろう。そうなると、「だし」と「つゆ」の違いは、その色と味の濃さの差ということになる。
いまでこそ東京のうどんはそれほどではないが、昔は本当に真っ黒な汁の中にうどんが茶色く染まりかけて浮かんでいるような食べ物だった。なるほど、これは「だし」とはいえないなと素直に思ったし、同僚がこの汁のことを「つゆ」と言ったのも宜なるかなと感じた。このことからも、「だし」と「つゆ」の呼称の違いはその色と味の違いが大きな要素を占めているのではないかと思う。
しかし、「たれ」はわからない。なんで麺類に「たれ」などという言葉が使われるのか。単に間違いだ、日本語の乱れだ、といってしまうのはたやすい。しかし、それではあまりにも安易すぎる。そこで手元にある広辞苑をひっくり返して、「だし」と「つゆ」と「たれ」について、その語釈を確かめて見た。
結果は以下の通り。
だし:「出し汁」の略。鰹節・昆布・椎茸などを煮だした汁。にだし。だし。
つゆ:「液・汁」①液汁。しる。水気。②吸い物のしる。③煮汁。④つけ汁。
たれ:「垂れ」②焼き物・鍋物の調味用の汁。醤油や味噌などに調味料・香辛料を加えて作る。
これを見る限り、「だし」と「つゆ」と「たれ」は完全に別物のように見える。「だし」は醤油などの調味料を含んでいない、純粋の煮出し汁で、「つゆ」や「たれ」の材料といってもいい書き方になっている。けれど、関西ではうどんの汁は「だし」としか言わないし、関東煮きつまりおでんの汁も「だし」という。「つゆ」といった場合は醤油などの調味料がよほど濃く調合されてつけ汁となっている場合か、すまし汁を「露」にみたてて「つゆ」という言葉を当てた場合になるのだろう。「たれ」に至っては、「つゆ」以上に濃い味と風味を有する独自の調味料という感覚になる。
翻って、関東では「だし」は純粋に出し汁としての意味しか持たなくなり、「つゆ」と「たれ」はどちらも濃い味を持つ調味料的な素材として、その区別が曖昧になっているのではないだろうか。だから、関東育ちの同僚が「蕎麦のつゆ」というかわりに「蕎麦のたれ」といってもあまり違和感がなかったのかもしれない。
そういえば、納豆の調味汁も、「たれ」と称する。これはもともと関西には無かった食べ物なので一概には言えないが、調味料としての位置づけをより多く持つ液体に関して、「たれ」という言葉を使うのが習慣になってきているせいかもしれない。
しゃぶしゃぶや焼き肉などにつけてたべる調味汁は「たれ」と言う。餃子を食べるときにつける汁は、醤油と酢と辣油を混ぜて作る。これも「たれ」と言う。この種の調味つけ汁の呼び方については関西も関東もかわらない。
つまり、「だし」と「つゆ」と「たれ」は、基本的には調味料としての役割の度合いによって区別される。さらにその色や粘度などの食感によって、関西と関東でその境界にずれが生じるのと同時に、呼び方に混乱が起こっているのだろう。
それにしても、蕎麦などの麺類に関して、「たれ」はなかろうと思う。
ただ、中華冷麺や仙台で有名なじゃじゃ麺などでは、やっぱり「たれ」といった方が似合うような気がする。こういう麺類は、本来の麺類とは一線を画した別種のたべものと考える方がよいのかもしれない。

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