サンパイ・ジュンパ・ラギ
清潔な薄緑色のカーテンをあけると、しろっぽい街並みのはるかむこうに、港にかかる吊り橋の放物線が太陽の光にかがやいているのが見える。
「ここ、眺めがいいでしょ?」
8階にある婦人科病棟の、あかるい病室のベッドに身をおこしながら、彼女はそう問いかけた。
「うん、気持ちいいよね。きれいな部屋だし、よかったね」
明日朝8時からの手術を控えて、彼女の顔はやっぱり少し不安そうだった。
「大丈夫だよ、執刀医の先生もあんなに細かくしっかりと説明してくださったし。安心していいとおもうよ。僕も手術を受けたことがあるけれど、手術室で麻酔のガスを吸ってなんどか息をして次に気がついたときには先生の“おわりましたよ”と言う声を聞いていたんだから」
「そう、そうなんだ。私もきっとうまくいくよね。ありがとう。あ、もうこんな時間。だいじょうぶ?」
「ああ、もういかなくちゃ。それじゃ」
「うん、サンパイ・ジュンパ・ラギ」
「え? なにそれ?」
「インドネシア語で、バイバイという意味」
「あれ? スラマッ・なんとか、っていうんじゃなかったっけ」
「スラマッ・ジャラン。それ、行ってらっしゃいっていうときにつかうの。スラマッは良い、ジャランは行くっていう意味。だからそう言われたら、スラマッ・ティンガルって返すの。ティンガルは残るとか留まるとかいう意味よ」
「へえ、そうだったんだ。じゃサンパイ・ジュンパ・ラギは?」
「直訳すると、またこんど逢うときまで、という意味。インドネシア語には日本語のさよならっていう言い方はないの」
彼女はやわらかくほほえみ、僕の目を見つめながら、一言ひとことを確かめるようにそう言った。
そうなんだ。彼女、自分の病気の進行状況も、手術の成功の確率がどれくらいかも、よくわかっているんだっけ。
僕は、枕元に置かれた花瓶の白い百合の花をみながら、どういえばいいのか、言葉に詰まっていた。
「だから、サンパイ・ジュンパ・ラギ」
彼女は、もういちどその言葉を繰り返すと、こう付け加えた。
「それからね、おかえりなさい、っていうのは、スラマッ・クンバリっていうの。それから必ず、どう?元気?アパ・カバルって訊くのよ」
「うん、わかった。明日、君が手術室から出てきたらそう言うよ。じゃあね、サンパイ・ジュンパ・ラギ」
「うん、サンパイ・ジュンパ・ラギ」
彼女は、ちょっと満足げにほほえみを返すと、小さく手を振って、またベッドに横になった。
病室を出、ナースステーションに向かって歩きながら、僕は聞き漏らしたことがあるのに気がついた。
「スラマッ・クンバリ。アパ・カバル?」って言ったら、彼女はなんと答えるのだろう?
彼女は、わざと教えてくれなかったのにちがいない。
手術室から出てきたときに、僕にほほえみながら教えてくれるために。
きっと手術は成功し、彼女は元気になる。
僕は、そんな確信が心の中に広がるのを感じながら、いつになく優しく見える街の風景の中を駅に急いでいた。


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