« 機械の形と機能の関係 | トップページ | 11月17日の夢 »

2006年11月21日 (火)

「あすなろ」のこと

あすなろ、という言葉が大嫌いである。この言葉を冠した会社や団体や組織の名前を聞くといっぺんに身が汚れたような気分になる。その正体がとてつもなく胡散臭いもののように感じてしまう。
アスナロの木が嫌いだということではない。アスナロの木には何の罪もない。その名前の由来として広く知られている話が気に入らないのだ。
ヒノキに似ているがヒノキではない。そして「明日はヒノキになろう、あすはひのきになろう」と懸命に努力しているが決してヒノキになれない。だから、アスナロと呼ばれるようになった、という俗説だ。これが何ともいえずカンにさわる。
アスナロの学名はThujopsis dolabrata、ヒノキChamaecyparis obtusaとは同じヒノキ科の植物ではあるが、全く別の種類の植物だ。だからアスナロがヒノキになるなんてことはどうやったって起こり得るはずがない。だからこの俗説は論理的には正しいけれど、まずは、植物のアスナロにヒノキになろうなんて意志をもつという擬人法に、さぶいぼが立つような嫌悪感を覚える。
百万歩譲ってこの擬人法を受け入れたとしても、なんで自分とは全く違うヒノキになろうなんて考えるのだ。それ以前に、なんでヒノキを良いものだと決めつけて、それを高貴なものとしてあがめ奉るのだ。自分には自分だけの他にはない特徴があるはずだ。それをなぜ大事にしない。大事にしてオリジナルな方向で伸ばそうとしないのだ。
世間で優れていると言われるものを無条件に信望し、ひたすらそれになろうと努力することを尊しとするなんて、自信も自尊心のかけらもない、最初から負け犬根性のしみこんだ輩の考えることだ。そこには、自分自身をこの世に唯一の存在として慈しむ心も、オリジナルな、他に抜きんでた何者かとして成長しようとする気概も心意気も感じられない。それではヒノキにさえなれなくてあたりまえだ。
それに、よしんば懸命に努力してヒノキになったところで、それ以上には絶対になれない。なぜなら、ヒノキになること自体が目的なのだから、目的を達してしまったら進歩も成長もそこでおしまいになるではないか。あまりにも底の浅い、思慮の足りない、志の低い話ではないかとあきれかえってしまう。
この、「あすはひのきになろう」の俗説は、井上靖の「あすなろ物語」で有名になった。ほとんどの人はアスナロの名前の由来をこの物語から知って、いい話だと思っている節がある。だからいろんなところで「あすなろ」という言葉が使われる。
ネットを検索したら、会社の名前だったり、同好会やNPO団体の名前だったり、お店の名前だったり、それこそ山のように「あすなろ」を冠したネーミングがでてくる。「あすはひのきになろう」と懸命に努力するという姿に習おうと、この名前を選んだのだろう。その気持ちはわからないでもない。
しかし、もともとの話では、アスナロは、「明日はヒノキになろう、あすはひのきになろう」と懸命に努力しても決してヒノキにはなれないから、アスナロと呼ばれるようになった。ということは、「あすなろ」という名前を冠したのは、決して目的を成就することがないのを無意識のうちに悟っているからか、最初から目的などどうでもよく、ただ懸命に努力しているという姿を他人に誇示したいがためだけにこの名前を選んだのではなかろうかと勘ぐりたくなる。実際そのような団体というか会社組織を身近に知っている。
おのれの才能と努力を信じ目的が達成されることを信じているものならば、その過程ではなく、目的を達した姿をイメージして自らの組織や会社のネーミングを行うはずだ。あえて「あすなろ」という名前を選んだセンスの奥底には概してこういう、おのれの所業に対する逃げや言い訳の感覚や、実情はともかく対外的にいかにも向上心があり努力を惜しまない姿勢という見せかけの誠実さを装う感覚が潜んでいるのではないか。
江戸時代の軍学書「甲陽軍鑑」に次のような一節がある。
「諸木のなかに、名のなき木、一本あり。この木が申す、杉より檜の木がまし、ひの木もこめなるはよしなどと、沙汰するを、余の木どもが問ひやうに、その方は何ぞといへば、かの名のなき木が、それがしは、檜の木のぢゃうにあすならふといひて、終に何にもならざる間、この木の名を、あすならふと名づくるごとく、よき武士をそねんで、こうなき男と、これを名づけんとて、内藤修理いふてわらひ候」
寓話的にアスナロの所業を引いて、功名の武士をそねむばかりで、自らは何の手柄もない口ばかりの輩を、アスナロウ侍と呼んで軽蔑したという話である。
むべなるかな、としかいいようがない。
もちろんアスナロの木そのものには何の罪もない。ただ、人間がその名前の由来をことさらに想像してねじ曲げ、おもしろおかしく俗受けするように作り上げたにすぎないことだ。
しかし、このような、アスナロの名が持つ負の側面についての概念はいつの間にか忘れ去られ、懸命な努力、といういかにも日本人の情に訴える側面だけがとりあげられて、さまざまなところで比喩やシンボルとして利用されるようになった。好意的に見れば、それは明日に向かう姿勢を示すすばらしいネーミングであり、表現の一つでもあるだろう。
しかし、「甲陽軍鑑」に示されたアスナロウ侍の寓意や、決してヒノキにはなれない劣ったものとして蔑げずまれたアスナロの怨念は絶対に消えることはない。そして「あすなろ」という名の中に存在する毒のある寓意は、その名を冠したものの内部で静かに根を張り、気がつかないうちにその精神を堕落させていくような気がしてならない。
「あすなろ」という名には、なにかそういう不穏な感覚がつきまとうのを、どうしても意識せずにはいられない。

« 機械の形と機能の関係 | トップページ | 11月17日の夢 »

コメント

これは、初めて知りました。
あすなろと、よく耳にはしていたけれど、
こんな深い話があるとは。

この意味を知ったら、
簡単にアスナロなんて、
つけられないですね。

そういえば、

主人公の名前が、あすなろ、といって、
スポコン野球漫画があります。
漫画の絵が、田舎じみてうちは好きではなく、
また、スポ根自体が嫌いだもんで、
ストーリーをよく知りませんが、

この日記を読んで、
何で主人公の名前がアスナロと設定されていたのか、
いま、理解できました。

くまさん、

でしょう(^^;;;

あすなろ、って、ずいぶんな名前だと思います。

名は体を表すといいますから、めったなことで、あすなろなんて名前を冠するものじゃないと思います。

アスナロの木自体はとても奇麗な材で、地元ではヒバとかアテとか呼ばれています。

アスナロには、そんなかわいそうな意味があったのですね。。日本の植物って、結構かわいそうな名前なついているものが多いですね。(゜o゜ナルホド*)

blueberry3560さん、

そうなんです。アスナロが気の毒です。

アスナロの木自体はとても立派でたくましくて、ちょっとヤニがつよいけれど、材も奇麗な木なんですけど。

あすなろについて子供のころこんな話を読みました。
 ある日神様が「ヒノキになりたい木は今日のうちに申し出なさい。申し出た木はヒノキにしてやろう」と言いました。
 いろいろな木が申し出ましたが、あすなろは「今日は面倒だからあすなろう」と言って寝ていました。それで神様はあすなろをヒノキになれないようにしてしまいました。
というものです。

富士8湖の1つに明日見湖というのがあります。この湖からは富士山が見えません。
 子供のころ読んだ民話によりますと、
 富士山は一晩のうちに神様が作りました。みんなびっくりして大変な山ができたといって眺めました。
ところが明日見の人たちは「そんな高い山なら明日も見えるだろうから明日見よう」と言って見ませんでした。神様は怒って、明日見からは富士山が見えなくしてしまいました。
 ともに面倒くさがり屋の怠けものを神様が罰するという教訓の話のようです。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 機械の形と機能の関係 | トップページ | 11月17日の夢 »