トップページ | 2006年11月 »

2006年10月31日 (火)

指の怪我と楽天主義

指を切ってしまった。
お昼休みに事務所の裏山で藤蔓を採集しようとしたとき、のこぎりで左手の親指と人差し指を傷つけてしまった。のこぎりを持ち出すときに、これではツルのような柔らかいものを切るときにすべって怪我をするのではないかという思いが頭をよぎったのに、それを無視したのがいけなかった。
のこぎりにはかつて痛い目に遭っている。都市公園で開催されていた農林関係のお祭りで、丸太挽き体験コーナーがあった。山鋸で細めの間伐材を輪切りにし、これに焼き印を押してもらって、記念品にする。花托とか鍋敷きに利用できるので人気があった。これに挑戦したときに、どういうわけか手が滑って左手が鋸の刃にかかってしまった。あまり握りしめずに柔らかく手首が動くようにと意識したのがいけなかったのだろう。
瞬間痛みが走って、かなりの出血があった。タオルで押さえてある程度血が止まってから傷口をみると、のこぎりの刃が斜めに当たったのだろう左手の人差し指の付け根の部分に、3列に深い切れ込みが走り、中に白いものが見えていた。骨か腱のようだった。
こうなると、さすがに放っておくわけにはいかない。タクシーで最寄りの病院へ行って手当を受けた。行くまでに1時間近くかかり、そのあいだずっとタオルで傷口を押さえていたので、医者に診せたときには傷口はふさがっているように見えた。
切ってすぐに傷口を押しつけていると、一時的にくっつくことがあるという。それでも、白いものが見えていたことを言うと、念のためにと傷口を縫合することになった。指の動きから、腱が切れたりしていることはなかろうということで、手当はそれだけ。抗生物質を処方された。傷は特に問題なく治癒したけれど、いまでもはっきりと白い傷跡が残っている。
今回も、同じようなミスだった。柔らかくて吊り下がっている不安定なツルを左手でもって、のこぎりで切ろうとした。細いツルをのこぎりで切ること自体無理がある上に不安定に揺れ動く状態なのだから、のこぎりの刃が滑って当たり前だった。それをわかっていてやろうとしたのだから、自分でも恥ずかしい限りだ。手遅れになってから前回と同じように反省するというのが、愚か者の愚か者たるゆえんなのだろう。
若い者への教訓やビジネス指南書などに、ミスはどんどん犯して良い。しかし同じミスは絶対に繰り返すな。などという言葉がよく取り上げられている。こういう言葉が取り上げられる原因となる恰好の事例を、身を以て提供しているようなものだなと苦笑してしまった。
今回は押さえていた親指の先と人差し指の側面に刃が当たった。やっぱり斜めに当たったので3,4列に平行に刻み目が入るように傷が開いた。それほど深くはない。最初はあまり痛くもなかったが、しばらくして、血が豆粒のようにまるく盛り上がり、流れ始めると同時に、ぽたぽたと落ちて持っていた藤蔓や鋸の刃をぬらし始めた。血が出るまでの間がいやに長く感じたし、血が出てからは、これほどまで急に大量に出るものなのかと少々びっくりした。前回の経験はすっかり忘れてしまっていたらしい。しばしの間痛みも忘れて、血が流れる様子をじっと観察していたように思う。
しばらくして、やっと思いついて傷口を上に持ち上げ右手で指の付け根を締め付けて止血した。それから手の甲まで流れてきていた血を舐め取った。金臭い味がする。血の味だ。めったに味わうことがないはずの味だが、これほどはっきりと記憶している味もなかろうと思う。
おもしろいなと頭のなかで、水の表面に波紋をつくって持ち上がる泉のように愉快な気分がわき上がってるのが感じられる。その自分自身の行動と心の動きを振り返って、これが好奇心というものの現れ方なのか、とあらためて妙な納得の仕方をしながら事務所に戻り、石けんで血を洗い流し傷口をきれいにしてから、軟膏をぬって傷絆創膏を貼り付けた。
自慢じゃないが、救急パックと折りたたみ傘は普段から必ず鞄に入れている。よく怪我をするからとか、雨に降られやすいからとか、そういう問題ではない。こどものころ教会学校のボーイスカウトで学んだBe prepared(備えよ常に)を単純に実践しているだけだ。
自分のこの習慣に関しては、サー・チャーチルがこういうことを言っていたのを知ってうれしくなったことがある。
「私は生来の楽天主義者だ。ただしいつも傘を持ち歩くことをわすれないが。」
正確な英文は覚えていないが、たしかこんな意味だった。
私も自分のことを基本的には楽天家だと思っている。ただ、いつも準備を忘れないというのは楽天主義を標榜するにあたっての必要条件だと信じている。チャーチルの言葉はまさに我が意を得たりだった。
しかし、ネットで探してみても、この原文がみつからない。この言葉、たしか10年ほど前のNHKラジオビジネス英会話で出てきた引用句で覚えたものだ。そのうち確かめてみたいが、まだテキストは保存してあるだろうか。自宅に帰ったら、押し入れをひっくり返してみなければならない。
親指の傷テープには少しだけしか血がにじんでいない。どうやら出血はとまったようだ。左手で助かった。それにタイプを打つには親指はほとんど使わないことに、気がついた。これも今回の怪我の功名だ。トラブルがおこっても、いろいろとそこから学ぶことがある。そう考えていれば失敗なんていう現象はこの世には存在しない。
楽天主義というのはこういう考え方をいうのかなと、タイプを打ちながら考えた。どうせなら、この思考スタイルで人生を最初から最後まで生きていきたいと思うが、それができるかできないか、それこそが真の楽天主義者であるかどうかということの分かれ目なのだろう。

2006年10月30日 (月)

リアリティとは

G・I・ジェーンという映画を見た。
1997年作の古い映画で、もちろんレンタル屋さんから借りてきたDVDだ。
あらすじをごく単純に紹介すると、アメリカ軍の女性兵士が海軍特殊部隊SEALの養成コースに参加し、みごとにやり遂げるというお話だ。司令部の地理解析班に配属されているヒロインが、ある女性上議院議員の政治的な思惑で女性のアメリカ軍内での地位向上という名目で、参加者の60%が脱落するというこのコースに参加させられることになる。持ち前の気の強さと超人的ながんばりで、女性としての特別扱いを拒否し、男と対等の立場で地獄の訓練を耐え抜いて、SEAL隊員の地位を勝ち取るまでの、手に汗握り、見るものに訓練の過酷さをこれでもかと印象づける、一部のファンにとっては、すばらしい出来の超娯楽大作らしい。
この映画では、ヒロインが男と同等に扱われることを要求した後、自分でバリカンで髪を剃り上げるシーンがたいそう評判になった。たしかこの女優は「ゴースト、ニューヨークの幻」とかいう映画でヒロインをやった女優で、ブルース・ウィリスという俳優と結婚して5人も子供がいるが最近離婚したとかいう女性だそうだ。しかしブルース・ウィリスはまだ彼女に未練があってよりを戻したいと思っているのだという。私はそういうことにはいっこうに興味が無いのでこの女優の名前もしらない。こういう情報はすべて嫁さんから聞いたものだ。嫁さんは、こちらが覚えていてほしいことにはちっとも興味を示さないし覚えようともしないのに、なんでこういうことはすごく良く記憶しているのか不思議で仕方が無い。
話をもどして、本題に入る。
映画はドラマとしてそれなりに良く出来ていた部類に入ると思うし、たしかに映像効果はすばらしいと思う。SEALの地獄の特訓を印象づけたり、ヒロインの女性ゆえの困難や軋轢、極端に酷い訓練での扱いなどの見せ場もよく演出されている。
だが、見終わって、徹底的にうんざり感に襲われ、フラストレーションがたまった。理由はとにかく、あまりにもリアリティが無さすぎる。その一言につきる。
極端な設定のヒーローものなら、リアリティは二の次という考え方もあるにちがいない。それはそうだ。スーパーマンやバットマンなどのヒーローもの、インディージョーンズなどの冒険活劇、スターウオーズなどのSFならそれでいい。そのほうが見ている方もうんと面白いし、最初からプロレスを見るようにその演技的なバトルシーン、活劇シーンを楽しむ。しかし、これは現実社会に存在する組織の中で、生身の人間が実際に、この世の物理法則、自然現象、現時点の技術その他に支配される世界のなかで展開される物語だ。多少の誇張は許される。しかし、これは度がすぎている。また、自然法則も物理的限界も科学的な常識も全く無視したシーンが続きすぎる。
ヒロインは、ものすごく頭がきれて、優秀なアスリートとしての経歴も持つという設定だ。その、昨日まで作戦司令部のコンソールの画面の前で地理情報の把握と解析を行っていた女性が、いきなり初日に19時間ぶっ通しで肉体の限界まで、まったくといっていいほど休み無く、食事もとらず、排泄もせず、海岸でずぶぬれになり、筋肉と体力を酷使する訓練をし、そのあと暗闇の中で制限時間なしで500ワード以上の愛国心についてのレポートを書き、そのまま睡眠をとることもなく次の日の訓練を開始する。それが1週間続くなどという、馬鹿なシーンを見せられると、さすがに白け、うんざりを通り越して、嫌悪感が出ようともいうものだ。
ほとんど一昔前の日本のスポコン漫画状態にちかい。たしかに昔の体育会系の世界にはこれに近いものがあり、無知な指導者や先輩の、科学的な理論もへったくれもない体を酷使し故障させるだけのごとき鬼のしごきの中で生き残ったものだけが日の目を見るという生存競争的な悪癖があったということは聞いている。いくらかはいまでもそうだろう。その伝統は今日の日本社会、組織でも、ある意味でしたたかに生き残っている。しかし、この話は現代のアメリカ軍の中のことだ。どれだけの負荷を掛ければ人間の体と精神が破壊するかなどは計算の上の訓練のはずだ。科学的なベースがいっさい無いように描かれるこういうシーンは見ていて疑問と嫌悪感を禁じ得ない。
ヒロインがこの不眠不休の筋肉を限界まで酷使する激烈な訓練のさなかに睡眠時間を割いて、あきらかに筋繊維をぼろぼろにする様な強度と頻度で腕立て伏せや腹筋を繰り返し、訓練を初めてわずか1、2週間の間にみるみる筋力をつけるというふうに見えるシーンも、筋力トレーニングがいかなるものかを知っていれば、非現実の極み、趣味の悪いジョークとしか映らないし、拷問シーン、戦闘シーンで、頭を殴られて完全にヒットしている状態でも、壁に後頭部を激しく打ち付けられても脳しんとう一つ起こさず、殴られて口の中から血をどっと吐き出す状態でも、鼻が折れても、顔に酷い傷を負っても傷跡や青あざができるだけで、こぶも出来ず、顔が腫れあがることもないというこのリアリティの無さは、もう、悪い冗談としか思えない。
さらにくわえて、なんとヘルメットも防具も装備しないでの実戦訓練を行うシーンとなるに至っては、だんだん見るのが嫌になってきたくらいだった。
そしてこの食事も睡眠も取れない地獄の訓練が続いているはずのさなかに、訓練兵たちが夜のバーで酒を酌み交わしたり、ヒロインが女性兵士スタッフらと一緒に海岸でパーティーを開くというシーンまで挟み込まれていて、いったい何がどうなっているのかいよいよさっぱり事情がわからなくなる。しかし、話がややこしくなるので、そういう場面はいっさい無視して訓練の肉体的物理的なことに限定して考えることにする。
しつこいようだが、この極端に物理的自然現象的肉体的技術的にリアリティのないシーンの連続が、ヒーローものやSF、さらにもうちょっと甘くして西部劇や冒険活劇、スパイ映画、ギャング映画などであるのなら、まったく問題ないとはいえないが、許せないことも無い。これが現実社会で実際に人間が行っていることとして描かれているそのリアリティの無さに、あきれかえるということだ。
半分SFのようなファイトクラブという映画の中でも、酷い傷跡や顔の腫れなどが非常に丁寧にまともにリーズナブルに描写されていた。設定自体が完全なフィクションでもあれだけのリアリティを追求する。
それが、この映画では全く無視、というより演出家がすべての現実的設定を無視し、中学生の学芸会並みのセンスで誇張している。ちょっとたとえが悪いかもしれないが、プロジェクトXの真実をねじ曲げたお涙ちょうだい成功談の嘘っぽさ、ばかばかしさと相通ずるものがある。プロジェクトXはいまでも、感動を求める多くの人に根強い人気がある。それと同じように、こういうリアリティの無い映画にも、そのドラマ性だけを取り出して、感動する人間がいるのだろう。それはわからないでもないが、見ていてその不自然さに気がついて、気分がさめてしまうということがないのだろうか。
ひょっとしたら、彼らは、疑問をもつのに最低限必要な、根本的な自然法則や物理的限界や科学的な常識に関する知識を持っていないのではないか。ただ、あたえられたもの、脚本家や演出家が見せたいと意図したものに、単純に反応しているだけというのが、プロジェクトXやこんな映画に何の疑問も持たず感動するタイプの人間の実態なのではないかと邪推している。

2006年10月29日 (日)

10月25日の夢

いろいろ見た様な気がするけれど覚えているのは模型関係の夢だけだ。夢は模型サークルのミーティングの場面から始まった。
ナローゲージといって普通より線路の幅が狭く、車両も小さめの地方鉄道や森林鉄道をもっぱら題材にして楽しんでいるモデラーたちがいる。今日はそのサークルのミーティングで、地域の集会所の一室を借りて、みんなが自分の作品を持ち寄って、見せ合ったり、走らせて遊んだりする。
それだけのはなしだが、模型工作のアイデアや技巧、どこでどんな部品やキットが手に入るかなどの情報交換も楽しいし、他人がどのようなテクニックを使って工作をしているのか、実物を前にして作者と話が出来るのは何にも増して、自分の模型工作活動の刺激になる。
仕事でもこれくらい熱心におもしろがって取り組むことが出来ていればずいぶんと楽しいし結果も違うことだろうにと思うけれど、趣味というのはそういうものなのだろう。仕事と一緒にしてはいけない。たまに仕事を趣味としている様な方もおられるが、そういう人の人生は起伏はあるだろうけれど、全面を単色のペンキで塗りつぶされたような生活を送っているのに違いないとおもう。
部屋の片隅では、パイクといって、小さなスペースに線路を引いて情景をつけたジオラマの様な作品がいくつも持ち寄られて連結され、そのなかを小さな車両がゆっくりと走っていた。昭和30年代の日本の田園風景をモデル化したもののようだ。隣には背の高い木が配置された森林鉄道のパイクやセクションレイアウトも並んでいる。そのころは、軽便鉄道があちこちにあって、蒸気機関車もたくさんいた。
蒸気機関車はオーレンシュタイン&コッペル社とか、ボールドウィンとか、バグナルとか、その当時はドイツやイギリスからの輸入品がほとんどで、それのしゃれた特徴のあるデザインがまた人気がある。それを精密に模型化することにすごく情熱を傾ける人も入る。
しかし、もともと軽便鉄道なんて、それぞれの鉄道で地元の鉄工所などが部品を集めてつくった車両も多かったわけなので、どこにどんな奇妙なデザインの車両があるかしれたものではない。だから、わたしもそうだけれど、自分の好みの趣くままにフリーハンドでデザインし、それを模型として実体化するという楽しみ方をする。これをフリースタイルの模型と言う。どんなにおかしなデザインのように見えても、資料を調べるとよく似た実物が出てくるのもまたおかしなところで、それも楽しみの一つと言えないこともない。
そうこうしているうちに、時間が来て会はお開きになり、三々五々メンバーが自分の作品を撤収して帰り始めた。何人かは次回の会場の手当をする話し合いを始めていた。そのなかに私もいる。次回はこの会場は借りられないことがわかっていたので、メンバーの会社の会議室か休憩室を借りたらということになり、あまり遠くはなかったので、皆で歩いてその会社に行って場所を確認することにした。
メンバーは三人。一人がその会社に勤めている人で、時間が遅く、玄関はしまっていて入ることが出来ないので職員専用の出入り口に回る。最近はどこもそうなのだろうが、警戒が厳しいようで、ロックに暗証番号を入れないと入ることが出来ないようになっていた。彼はポケットからメモを出して暗証番号を確かめて入力し「裏口からは夜遅く出ることはしょっちゅうだけれど、はいることってあまりないからね」といいわけした。
中に入ると、無機質な感じの灰色の廊下がずっと続いていて、エレベーターで9階にあがった。彼の働いているフロアで、執務室と廊下を挟んで反対側に会議室があり、左手のつきあたりに給湯室と休憩室がならんで配置されている。
会議室は、社の重要な会議に使われるところらしく、ドーナツ型に立派な重そうなテーブルが並んでいて、ちょっと使えそうにない。そもそも借りられるかどうかもわからない。
これはだめだと、休憩室を見に行った。ドアを開けると、なぜか幅1メートルくらいの短い通路があり、その先にふすまがあって、中に奥行き3メートル、幅8メートルくらいの横に長い畳敷きの部屋があった。内装は木造の和室風で壁は薄緑色の聚楽壁だった様な気がする。さらに左奥には四畳半くらいの畳部屋がつながっている。休憩室にしてはずいぶんと広い部屋だなと不思議に思った。
備品は何も無い。ざぶとんと低い机があるくらい。これはミーティングに最適だ。
一緒に来たスドーさんは、早速自分の持ち物を広げて電源が使えるかとか、いろいろ試しだした。彼のセクションレイアウトはアメリカンタイプの風景で、機関車を自動運転できる工夫がしてある。彼は電気に強いのだ。レイアウトに組み立て式の線路も継ぎ足して、そこでいきなり運転を始めてしまったのには、あきれてしまった。ちょっと調子に乗り過ぎだ。
はっと気がつくと案内してくれた人がいない。困ってしまって、スドーさんは彼を捜しに部屋を出て行った。後に残ったのは、私とスドーさんの模型だけ。これは困ったことになった。どちらにしても、長くここにいるわけにはいかないし、しかたなく勝手に彼の模型を片付け始める。
しかし、電源を抜いても、コンデンサーか蓄電池が組み込んであるのだろう、機関車の動きは止まらないので、レイアウトを片付けることが出来ない。とりあえず、散らばった部品などを集め、スドーさんのバッグにしまい込む。
それでも二人とも帰ってこないので、携帯電話で呼び出してみることにした。携帯電話を開いて、ダイヤルボタンを押しながら、これは夢の中の話だから、忘れないうちにこの携帯にメモしておこうかななどと考えていた。夢とわかっているのが自分でも変だった。
そうこうしているうちに、いつのまにか、レイアウトはスドーさんの鞄の中に片付けられて入っているのに気がついた。あんなに大きなレイアウトが、肩からかけるくらいの黒い人工皮革のバッグに収まっていた。そのかわり鞄からはカメラがこぼれ落ちて外に出ていた。
携帯電話では連絡がつかず、結局、ショルダーバッグを肩にかけ、カメラを持って二人を捜しに廊下に出ることにした。いつのまにか片手に懐中電灯を持って、暗い廊下を照らしながら歩いている。まるで夜の夜中にビルに忍び込んだ泥棒か、ビル警備のガードマンみたいなシチュエーションだ。
そこで目が覚めた。

2006年10月28日 (土)

紅葉狩りという言葉

紅葉のシーズンとなった。風光明媚な観光地はどこも紅葉狩りを楽しむ人々でごった返している。
子供の頃、初めてこの紅葉狩りという言葉を聞いたとき、そのイメージがどうしてもわからなかった。
狩りというと、漁師が鉄砲を持って、犬といっしょにシカや熊やイノシシなどの動物を追いかけ、撃つて獲ることだと思っていた。物語や絵本などにもそんな風なシーンがたくさん出てきたし、狩りという漢字は狩猟という単語として、一つの言葉として習ったように記憶している。狩りは動物の肉を食料としたり、毛皮を取ったりするためにするものだと認識していた。だから、動物以外のものに、狩るという言葉を使うこと自体がとても新鮮な驚きだったし、何かしら優雅な雰囲気を感じたものだった。
狩りという言葉に、生き物を捕って殺すという意味が必ずしもないということに気付いたのは、蛍狩りという言葉を知ってからだった。これはたしかに蛍という昆虫、つまり動物を捕らえることだから、自分が持っている狩りのイメージに近い。しかし、蛍は捕って殺して食べるものではない。夕闇の中に緑色の光を点滅させながらふわふわと飛ぶ蛍を追いかけ、うちわで落として捕まえて虫かごに入れる。そんなことすらしないで、ただ蛍がとびかうのを眺めていることもあった。それでもそれは蛍狩りという言葉にふさわしい行為だったように思う。もっともいまでは蛍を見られるのはほんの一部の保護されている場所だけになった。昔はちょっと山間の谷川や、田んぼの用水路などにいくらもいたのに。
潮干狩りという言葉もそうだ。この言葉を見ると、熊手をもって遠浅の砂浜を一心に掘り返し、次々と出てくるアサリや蛤などの貝を夢中で集めた子供の頃の記憶がよみがえる。もちろん、貝はあとで食べるものだが、潮干狩りをしている間はそんなことは考えない。砂を掘り返して貝が出てくることがおもしろくてたまらないのだ。純粋に砂の中から貝を探す行為のたのしさ、それ自体が潮干狩りの本質だろう。
実際、漁師は大きな鉄かごに熊手がついたような道具を海に沈めて海底をひっかいて貝を獲る。ここには潮干狩りなんて優雅な言葉が入り込む余地はない。潮干狩りの狩りはもう本来の、動物を狩猟することの意味から遠く離れた、趣味娯楽や好奇心の代名詞のようなものとなっているのだ。
ほかにも、松茸狩りやみかん狩りなどという言葉があるが、これらはどれも潮干狩りと同じような意味合いで使われている、どちらかというと趣味娯楽の意味合いの強いことばだろう。なかでも紅葉狩りや蛍狩りのように、実利を伴わなず、純粋に人間の風雅を愛でる行動や好奇心の発露をあらわすのに狩りという言葉をつかったそのセンスは、何物にも代え難い日本人の感性のなせるわざだと思う。
と、ここまで考えたとき、ふと、ガールハント、という言葉を思い出した。意味はいうまでもなく、男どもが、町で女の子に声をかけるとか、美人を捜すというほどの意味だ。ハントは狩り、だから文字通りだと女の子を狩る、ということになるが、ここでもハントという言葉が本来の狩猟からはちょっと離れた意味合いで使われている。
英語の辞書を開いて、さらに驚いた。Huntは本来の狩猟の意味のほかに、犯人や真相などを追うこと、追跡すること、それから人やものを捜すという意味にも使われる。たとえば、真相を追求すると言うときにも使われるし、なくしたボールを捜すなどと言うときにも使われる。変わったところでは、カリヨンという5~12個で一組になった鐘を鳴らすときに規則的に順序を変えてメロディーを奏でることや、望んだ速度や位置、状態で振動することもハントと言うそうだ。
英語のハントも日本語と同じようにいろいろな意味合いがあるのだ。しかし、捜す、追求するとか言う意味はあっても、日本語の紅葉狩りのように美しいものを鑑賞するという意味での使い方は見つからない。
やはりこの用法は、日本独特の雅な感覚による表現なのだと確認したような気持ちになって、自分が日本人であることを、ちょっとだけうれしく感じた。
ところで、ガールハントに対応する日本語はどうも品がない。直訳すると女狩りとなる。これに対して、女漁り(あさり)という言葉もある。狩りと漁り、よく似た言葉だが、狩りは主に陸上の動物に使うのに対して漁りは魚介類を獲るのに使われる。そのような区別がある。
狩りと同じように漁りにも探し求めるという意味がある。たとえば資料を漁る、などのようにつかう。しかし、どちらかというと、餌を漁るとか買い漁るとかいうように頻繁にその行動を繰り返すような意味合いが強く、狩りにくらべてもう一つ上品さや勇壮さに欠ける。何よりも決定的なのは、その意味合いが実利に徹しているということ、そこに遊びの心がないということだろう。だから漁るという言葉にはそれ以上の比喩的な、雅な意味が付与されることはなかった。
女漁り、男漁りという語感のみっともなさ、卑しさをじっくりと味わってみると良い。もともとあまり品が良いはずのない女狩り、男狩りという表現が、まだしも格好良く聞こえてくるのだから、狩りという言葉はそういうところでもずいぶん得をしているように思う。
そんなところに言葉のおもしろさを感じる。
表現の善し悪しということとはまったく別にして、このような日本語の表現のおもしろさ、優雅さを時に触れて探し求め、楽しんでいきたいと思う。

2006年10月27日 (金)

チタケうどん

友人に、チタケうどん、をごちそうになった。
チタケというのは、正式名はチチタケ。ベニタケ科のキノコだ。このキノコを傷つけると、真っ白い乳の様な液体がでるので、この名前がある。なめると甘い様な渋い様な味がするそうだ。その味をダシにしてうどんにいれて食べる。
お茄子とチタケと豚肉をきざんだものを油で炒めてつけ汁に入れ、ネギを薬味にしていただくのだ。
「今年はチタケだけじゃなくてほかのキノコも不作でね。これは去年の冷凍物だから、本来の味じゃないかもしれんがね」と言い訳けしながら食べさせてくれたうどんはなかなかのお味だった。
冷凍のチタケは少々パサついていたが、舌にのこる甘みというか独特のうまみはちょっと珍しい味だったし、なによりも関東甲信越地方独特の濃い醤油味のつゆと良くあっているように思えた。
ただ、初めて食べるキノコというのは、やっぱりなんとなくスリルがある。この地方で昔からたべられているということで、信用はしていたが、こういう味は初めてで、ほかのキノコとはあきらかに味も香りも違う様な気がした。
じつは、チタケは普通は食用キノコとしてはあまり利用されていない。これを好むのは栃木県の人だけだ。チタケは栃木県人にとっては最高の味なのだそうだ。最近は近県の人たちも少しは食べるようになってきたらしいが、実際は栃木県に来て初めてこのキノコを味わったという人がほとんどだという。
これだけ地域によって好みの分かれるキノコも珍しいのではないかと思うが、栃木県人の、チタケに対する嗜好は尋常ではない。このキノコへの執着はたいしたもので、毎年季節になると、栃木県中の山は、腰にちいさな目籠をつけ、熊よけの鈴を鳴らしながらこのキノコを探して回る人たちでいっぱいになるといっていいくらいだ。
ビニル袋などではなく、目籠をつかうのは、キノコから胞子が飛び散るようにするためで、そうしないと次の年にキノコが生えてこないのだという。そこまで気をつかって、キノコ採りをしているのだと、友人は誇らしそうに話してくれた。
しかし、チタケは奥深い険しい山に生えることが多いので、毎年死人も出るのだぞ、と半分自慢げに話すにいたっては、ちょうど大阪岸和田のだんじり祭りで死人が出るのを自慢げに話すのとまったく同じで、あきれるというより、なんだかおかしさを感じてしまう。
それくらいチタケへの入れ込みようはすごい。とにかく、このキノコをたべないでは毎年の秋はすごせない、というのが栃木県人の常識らしい。だから、よそ者の私にも、どうしても食べてもらいたい、と冷凍もののチタケまで出してきてごちそうしてくれたその心意気にはもう、頭が下がるとしか言いようが無い。
こちらにきて1年になるが、栃木県人は素朴で親切な人が多いように思う。そのいいところが凝縮してできたような、そんな感じのチタケうどんの味だった。

2006年10月26日 (木)

10月22日の夢

いきなり会議の場面から始まる。
そんなに大きな会議室ではない。自分は市の議員の一人のようで、他のメンバーと一緒に長机にすわり、向かい合うようにして机がおかれて、議長や市の職員の様な人たちが座っている。その後ろに、演壇の様なものが見える。全体に茶色っぽい昔の小学校の講堂の様なデザインの部屋だ。
あんまり活発な意見交換の様なものはなくて、議論されていることもどうも良くわからない。最後になにか自分が質問した様な気がする。
会議が終わって、外のロビーに出ると、みんな煙草を吸いながら立ち話をしていた。あちこちにしきりのガラス壁がある。なんとなく映画の中で見る様なアメリカのホテルの様な磨りガラス文様入りのパーティションで、下半分はニスが厚く塗られた木の幕板になっている。
会議の席で、自分は妙な質問をしたようで、出席していた市長に苦笑いされながら文句を言われた。どうも困った人だと思われているらしい。
すこし話をして、尿意を催したので、挨拶し終えてトイレを探す。トイレはロビーの端の曲線の階段を登った上にあった。混雑していた。建物の外に向かって小便器がならんでいるのだが、それはただの胸あたりまでの壁の様なもので、小便器に当たる部分が腰の辺りまで切れ込むように低くなっている。壁には蔓植物の様なものが絡んでいて、土壁の黄色っぽい色とよくマッチしている。地中海風のデザインのようにも見える。
壁の外側は、ずっと下っていく土の斜面がみえる。遠くの下の方には動物園のアフリカ園の風景みたいにサバンナの木がまばらに茂っていて、動物がいるの眺められる。顔に当たる風が気持ちいい。しかし、切れ込みの位置が高いのでつま先立ちしてチンチンを出さなければならないのと、おしっこの霧が風にまいあがってもどってくるのに往生した。
ロビーに戻ると、人はかなり少なくなって、どんどん玄関から出て行くところだった。自分は何をしていいのか、いきさきもよくわからないので、その人の流れをぼんやりと見つめていた。知っている顔もない。
なにげなく壁にかかった時計をみて、突然、次の大事な会議の時間がせまっているのに気がついた。たしか、総理大臣みたいな偉いひとも出る会議だったはずであせる。玄関をでて広いグラウンドのような庭をとおって反対側の建物に行かなければならないことも思い出して、玄関を出ようとしたら、「さがしてました」とグレーのスーツを着て眼鏡をかけた色の白い男が自分を呼びにきた。
「こっちです」といって、いきなり走りだす。自分も後ろについて必死に走る。こっちのほうが近いと言って、普段は閉鎖されているという、どこかの宮殿の中の回廊のようなところをついて走る。左側に石と苔が見える。細長い中庭になっているようだ。周りはうすぐらい。回廊の床にはえんじ色の複雑な模様のある絨毯が敷かれていて、左側は深紅に塗られてこまかい細工の装飾金具が取り付けられている欄干がずっと続いている。右側はずっと欄干と同じ色の板壁で、ときどき廊下やドアがあった。
前を走る彼の、はあはあという荒い呼吸が聞こえ、自分も楽になるかといろいろと呼吸の仕方を変えてみる。所々に階段があり、駆け上がろうとすると筋肉がつりそうになって一気に登ることが出来ないので、どうしても少し立ち止まってしまう。途中で彼の姿を見失って後戻りしたりもした。それが延々と続くのだが、いっこうに目的の場所に着かない。
どうなるのだろう、と思うのと、かなり飽きてきたな、と思ったとたんに、今度はホテルのロビーの片隅におかれたソファに座っているのに気づいた。
深いブルーを基調にした絨毯やシックで高級そうな金色の細かい模様をあしらった壁紙、アールヌーボー風のランプなどの調度が豪華さを演出している。ソファもとても座り心地が良い。ちょっと薄暗くて、電球のランプの照明が上品だ。すぐ手前にある読書ランプがすこしまぶしく感じた。
右手の低いテーブルに雑誌が積まれているので、何気なく取り上げてめくってみた。中身は、旅行鞄やスーツケースのカタログ雑誌のようで、いろんな製品の写真が所狭しと並んでいた。それが何ページも続く。
ほかの雑誌も見てみた。運動器具の紹介、船の写真、陸上競技の記事、政治的ニュースの記事などなど、写真入りの記事がいくらでも目に入ってくる。興味のある記事がなかったので、そのまま机に戻して、おなかの前で手を組んで目をつぶった。
目をあけると、職場の会議室の様なところで、皆がお茶を飲んで話していた。休憩時間らしい。同僚の八木沢が結婚をとりやめるが彼女と同居するというはなしでもちきりのようだ。もうすぐ結婚式をする予定だったはずなのにどうしたのだろうと不思議に思って聞いてみたがわけがわからない。
自分は結婚式に出てスピーチを頼まれているのにどうすればいいのだ。披露宴を行うのかどうかも不明らしい。花嫁花婿どちらも職場の同僚だったのでよく知っている。嫁さんの方の白い丸顔が頭に浮かぶ。それでいいのかとすごく疑問を感じる。
周りの連中はさわいでいるがそれでいいんだという。本人にあってたしかめなければいけないが、どこにいるのかわからないので、手のうちようがない。
というところで目が覚めた。

2006年10月25日 (水)

ピン止め

世間一般に通用している言葉なのかどうかわからないが、うちの会社内では、ジャーゴン(隠語)または比喩として、ピン止めという言葉がよく使われる。
これはたとえば、ある問題があったとして、その実態がよくわからないとか人によって解釈が異なる場合に、その問題を明確したいという暗喩として使われたり、なにかの行動を起こす際に、その行動が妥当かどうかについて許可、またはコンセンサスを得るという意味で使われたりする。
こうやって文章に書くと、何の問題も無いきわめて妥当な言葉のように見えるが、実際の使われ方はそんなものではない。
突然、脈略無く「その問題を、どこでどうピン止めするかということです」などというまったく具体性の無い、実際には何をどうするのか訳の分からないニュアンスでつかわれる。
つまり、発言者がその問題についてどのように対応すれば良いのかなにも案をもっていないことを、いかにも意味のある様な言葉でもっともらしく取り繕い、オブラートに包んで議論の場に放り出して棚上げすることが目的なのだ。
そして、こういう意味の無い言葉が使われたとたんに、議論は停止する。この、ピン止めという言葉によって、問題の内容を調査して明確にするために実際にどのような手法をとるか、とか、その行動を起こすにあたって誰の許可を得ることが必要なのか、というようなことにかかわる具体的、現実的な議論が、何やら責任の所在が不明確な、よくわけのわからない雰囲気にたよった合意形成を期待するということにすりかわってしまうのだ。
こんなに始末の悪い言葉はない。また、これほど責任の所在を不明確にして物事をすすめるのに好都合な言葉もないだろう。こういう言葉が会社の中で普通に使われているうちは、明確な責任と意志決定のもとに迅速で効率的に仕事が進められることは難しい。
そのことを理解している人は、このような言葉を使うという発想自体がないだろう。しかし、現実の会社の中での権力構造や、巧妙な責任の押し付け合いのゲームの実態を考えたとき、この便利な表現はずっと生き残ってつかわれ続けられるにちがいない。

2006年10月24日 (火)

10月20日の夢

どういうわけかバンコクにいる。
身分は留学生。何人かの仲間といっしょにこちらに来た。日本人がたくさん滞留しているホテルのロビーから場面は始まる。
木造の古いとも新しいとも言えない作りのホテルだ。リゾートホテルではない一般人が長期滞在するためのホテルだから、作りは安っぽい。厚くニスをぬったベニヤ板の壁が光を反射し、電球の光でどこも透明な褐色に光って見える。だからロビーと言っても、8メートル四方くらいの何の変哲も無い部屋で、壁際に竹製のベンチが置かれ、中央に低い木のテーブルが置かれているだけだ。床はパンチカーペットの様な素材が敷き詰められているようだ。
この歳になってなんで留学生として派遣されたのかがよくわからないが、とにかく生活が始まっている。
ここに来てすぐ知り合いになった女の子が話しかけてきた。目が大きく丸顔で気候にあわせているのだろうかストレートの短いボブヘアにしている。こちらで手に入れたのだろう派手なオレンジ色に細かいプリント模様のあるワンピースが結構似合っている。彼女はもうすぐ帰国する予定だという。今日はホテルのすぐ裏にあるバザール(市場)のお好み焼きやにいったら、真っ赤な分厚い漫画の本をくれたと言って見せてくれた。
「何かの宣伝みたいよ。店に入ったら、ものすごくたくさん積み上げてあってびっくりしたもん」
「へえ、じゃ、僕ももらってこようかな」
「お好み焼き食べないとダメよ。でもあれ、量がすごく多いしあまり美味しくないから、おすすめじゃないわね」と、僕の目を見上げながら、愉快そうに笑った。
どうせ行ってみても言葉がわからないし、どうやって注文したらいいのかわからない。そうだ、この国の言葉は知らないんだ。それなのになんでここに留学なんかしてるんだと急に不安に教われる。
「とにかく、あちこち出歩いて土地勘をやしなうことね。安いレストランとか雑貨品とか、生活に必要なものを手に入れるところを知っておかないといけないわ。はい、これ、地図ね」と、手書きのコピーを手渡してくれた。
手に取って見るとホテルを中心に周辺の道路とバザールの位置、さらにその中にいくつも星印が記されて横に店の名前と料理の種類や取り扱っている商品の種類が書き込まれていた。この留学生宿の住民が長年にわたって足で集めた情報をまとめたものなのだろう。
「ありがとう、やくにたつよ」
「バザールの模型もあるのよ、誰かが作ったみたいだけど、中のお店までこまかくつくってあるの、これよ」といって、ロビーの一角に僕をつれていき、そこにおいてあった模型の中をのぞきこめるように、屋根をとってみせてくれた。みたところ手作りではなくてプラスチック製の大量生産品をうまく利用して組み合わせてあるように見える。そんなものがここで生産されているのだろうかとちょっと不思議に思った。
ロビーの入り口左側はフロントになっていて、こんな安ホテルなのにレセプションの女の子が二人もいる。この国の女性らしく、幼い女の子のように見えるくらい小柄で控えめでにこにこと微笑んでいるのだが、言葉が通じないので話すことが出来ない。
反対側は、本棚がならんでいて、滞在者が共同でつかうスペースになっているらしい。学術書もあれば、趣味の本、旅行案内書などが雑然と並んでいて、いまも二人の男がその本を取り出してぱらぱらと繰って眺めては、適当に本棚に戻す動作を繰り返している。どうやら蔵書の整理をしているようだ。
「あ、これ、読んどいたほうがいいよ」と、とつぜん一人の男が、ひどく縦長のカラー板のガイドブックを投げてよこしてくれた。政府環境局のガイドブックらしい。中身は英語だった。これなら読めないことも無いなとおもったが、自分は英語さえ自由にはなせないことに思いあたって、泥水がわき上がるように不安と負担が心を満たすのを感じ、手に取った本が急に重く感じた。
そろそろ部屋に戻らなければ。
木の机の上に広げてあった、事務手続きや語学の参考書、それから読みかけの論文雑誌や書きかけのレポートなどを薄茶色のクリアファイルに挟み込んで席を立つ。
フロントの女の子達をちらっとみると、白い歯をみせてにこっと微笑んでくれた。濃い赤のバティックに金の縁取りがある鮮やかな民族衣装ふうのコスチュームがよく似合っていた。
ロビーの端の木の階段をのぼると二階はいくつもの部屋に分かれている。いるのはみな長期滞在者で学生がほとんどだ。エアコンなど無いのでどの部屋もドアはあけっぱなし。そのおかげで風通しは良い。部屋の中は丸見えで、床に置いた低い机に向かって一心に書き物をしているものもいれば、所在なげに寝ころんでいるもの、二三人で集まって、なにやら碁石の様なものをつかって地元のゲームをしているものもいる。
私の部屋は階段を上って右に折れ、端から3つ目の部屋だ。一つ前の部屋のドアが閉じられていたのでドアの丸窓を覗くと、坊主頭の住人がこちらを見ていた。あわてて目をそらす。
自分の部屋のドアは開け放しになっていた。中を覗いて、うんざりした気分になる。細長い3帖ほどの部屋の床は乱れた布団が敷きっぱなしで、その周りに本や雑貨が足の踏み場も無いほどに散らかったままになっている。この状態はどうしたのかと一瞬理解できなかったが、すぐにこれは自分のやったことだと思い出す。
左側の壁は作り付けのクロゼットで、壁の上半分すべてが収納になっている。扉は安っぽいベニヤにニスを塗ってロールシャッハテストのような模様が浮かんでいた。扉を開けて確かめたら、一カ所に毛布と枕が入っていただけで、ほかはがらんどうのままだった。これなら部屋にちらかったものをかたづけることができるはずだ。
そんなことを考えているうちに目が覚めた。

2006年10月23日 (月)

後頭部打撲顛末

それは昨日の朝8時半ころだった。
あっと思ったときには、ふわっと仰向けに体が浮き、一瞬後に後頭部がアスファルトに当たるごつんという音が聞こえた。
体が硬直する。数秒間だったろうか。意識はある。硬直が解けると同時に手を後頭部に持って行き、傷を確かめようとした。それほどの痛みはないが、しびれたような感覚と体が動かないもどかしさにいらついた。
「そのままにして。かなり激しく打ったみたいだから。うごかないで」というだれかの声が聞こえる。頭を上げて起きあがろうとしていたらしい。
その声を聞いてもういちど、手のひらを下に敷いて駐車場のアスファルトの上に頭を落とした。
イベント会場の駐車場で仮設テントを組み立てようとしていたときのことだった。鉄パイプの部品で屋根の骨組みを組み立て、それにテントシートをかぶせるときに、横に走る骨組みに足を取られてバランスを崩したのだ。手はテントシートを握ったままだったので、とっさに体を支えることも出来ない。ちょうど足払いをかけられたような体制で体をくの字に曲げる余裕もない。背中から棒のようになったまま体が倒れ、同時に頭がアスファルトを打った。
しばらくして起きあがったときには、意識ははっきりしていたけれど、なんだか柔らかいものの上を歩くような妙な気分だった。とにかく椅子に座ってしばらく様子を見ることにした。皆はテントを組み上げると、私の状態を確かめに来た。
「医者、行きますか」とスタッフが心配そうに私の顔を見る。
「大丈夫ですよ。傷はないみたいだし、そんなに痛みもないですから。ちょっと様子を見ます」
わりと、気持ちも落ち着いていたし、それほどのけがとも思えなかった。それに私は、責任者として最初の挨拶と司会進行をまかされていることもあって、イベントが終わるまではその場を離れられないという気持ちもあった。もし気分が悪くなったら、そのときは頼んで車で医者に連れて行ってもらえばいい、と判断した。
「じゃあ、イベントの間ここで留守番していてください」ということになった。
実際のイベントの現場は、駐車場から少し離れた山の中だ。そこでイベント参加者と一緒にちょっとした作業とゲームをする。その間誰かがテントの留守番をしなければならないので一石二鳥というわけだ。
参加者が集まり、開会式の挨拶と説明を終えると、皆、道具と服装を整え、山の中へ向かった。
残されて、椅子に座っていると、吹いてくる風が冷たい。体が急に冷える。これも頭を打ったショックの影響だろうか。しまった、車のカギをもらっておけば良かった。そうしたら風の当たらない車の中で休めたのに、とおもってももう手遅れだ。いまからイベント会場の現場まで行くだけの気力はない。
しばらくして、かなり気分もよくなり、体が冷えるのであたりを少し歩き回ったが、あまり無理は出来ない。そのうち少しだけ太陽がさして暖かくなったのでほっとした。
1時間半ほどで作業とゲームが終わり、皆が帰ってきたときは、もうほとんど普段の状態に近かった。違うのは後頭部に鈍い痛みがあることくらいのもので、特に吐き気もふらつきもなかったので、一応大丈夫だろうと、お昼3時すぎまでテントの撤収と後片付けまでつきあった。それでも気分も体調も悪くはなかった。
家に帰って夕食を摂り、体を休めようと横になろうとしたときに異変に気付いた。首が痛い。仰向けになって寝ると、頭を持ち上げることが出来ないのだ。横向きになっても、首の筋が痛んで体を起こすのがつらい。倒れたときに頭が地面に打ち付けられるのを防ごうと、無意識のうちにものすごい力で首を前に引いていたのに違いない。だから、これくらいの打撲で済んだのだろう。直後はわからなかったが、時間がたって炎症が出てきたのだ。いくぶん頭痛も強くなってきたような気がする。こういう症状はしばらく時をおいて出てくるものらしい。
いつものようにネット上の日記ブログに頭を打った話を書き込んだら、時をおかずに、「甘く見ない方がいいですよ」「頭を打ったら医者にみてもらったほうがいいです」というコメントがいくつもついた。そのたびに、今のところは大丈夫そうですというレスを返していたが、さすがに気になって、ネットを検索してみた。
すると、後頭部の打撲というのは想像以上に大変なことになる可能性が高いことがわかった。頭部の打撲傷は外傷がなくても、脳挫傷で急性硬膜下血腫がおこる場合も多く、脳圧が高まって機能障害が出、そのうちに意識がなくなる。これは通常短時間内におこるものだが、後頭骨骨折をした場合は硬膜外血腫が起こり、これは静脈性のため場合により意識清明期、つまり意識がはっきりしている期間が数日に及ぶことがある、というのだ。読んでいるうちに急に心配になってきた。
嫁さんに電話したら、日記ブログにコメントしてくれた人と同様にひどく心配をする。そんなに心配されると、これはちょっとまずいかもしれないと考えるようになる。
その夜は寝る前に、明日は無事目を覚ますだろうか、もし目を覚まさなかった時のことを考えて、いろいろ書類や何かわかるところにだしといかんし、パソコンのファイルで見られたら困るものも消しておかないといけないな、などと本気で考えた。とにかく明日まだ無事であってもそうでなくても、かならず病院に行って見てもらうことにしようと決めた。
寝てからも、首が痛くて寝相を変えられないのには困った。ちっとも安眠が出来ない。不安もあるからよけいに眠りが浅いし、途中でトイレに起きあがるのも大変だったのにはほとほと参ったが、とにかくちゃんと生きて目覚めることが出来たのには、ほっとした。
もっともこれが死後の世界だったら、昨日の世界にいる自分は死んでいるはずだな、などとも考えて、妙な気分を感じてしまったけれど。
その日は月曜日なので、いつも通り会社に出勤し、ミーティングが終わった後、休みを取って病院に行った。すこし遠いが、大事をとって評判のある大病院を選んだ。単身赴任先で初めての病院がよいだ。
特にトラブルもなく受付をすませることができたが、二階にある診察室の前での待ち時間は相当長かった。最初、看護婦さんの事前の質問に答えて、怪我の様子と現状を説明した。
しばらくすると、診察医が突然待合室まで出てきて、とにかくレントゲンを、という。一階に降りて検査室に行き、レントゲンを撮ってもらって写真を持って診察室に戻ると、それを見ながら、「骨には異常がないようです。反応見ますから」と目の動きを確かめたり、目をつぶって手を前に出させたり、ハンマであちこちたたかれたり、舌をださせたり、いろんなことをした。
が、診断結果は、おそらく大したことはないでしょう、とのこと。この一言を聞きたさに病院に来たようなものだ。
ただ、普通はCTを撮るものだと思っていたので、「レントゲンで細かいことがわかるのですか」と聞いてみたが、すでに24時間以上たっているので、差し迫った問題はおそらくないということでそれまではなかったということらしかった。何かあるなら普通は6時間以内なのだそうだ。しかし最悪2,3日の間に症状が出る場合もある。
結局、「木曜日にもう一度来てください、そのときまでに何かあったら連絡を。木曜日に来たときに、様子をみるのと、今後生活上気をつけることとかそういう話をしますから」ということになった。
とにかく、これで一安心したことはまちがいない。まだ頭痛はするけれど、なんとなく気分まで良くなった。そんなものかもしれない。それでも首の痛みは現実だ。こっちの方は時間がたつにつれてひどくなってきているような気がする。
しまった、湿布でももらっておけば良かったかなと気がついたが、もうしかたがない。おまけに夕方になって左の腰のあたりも痛くなってきた。きっとここもアスファルトに打ち付けた場所なのだろう。今夜も苦しい体勢で寝なければならないのかと思うと憂鬱だが、大変なことにならなかっただけでも感謝しなければならないなと思った。
後で知ったことだが、頭を打ったときは、少なくとも24時間は要注意。だれかがそばにいないといけないらしい。何がおこるかわからないからだ。おもえば一人で留守番なんて、それも歩き回るなんて、とんでもない話だったようだ。
しかし自分がその場の責任を取る立場にある場合は、こういうことはさけられない。なにか方策があれば良いが、世間というものはそんなに他人に、とくに責任を取る立場にあるものに対して配慮してくれる様には出来てはいない。親方が実際に作業員と一緒に働いていても自分が事故にあったときに労災が適用されないのと同じだ。そのことを肝に銘じておかなければならない。それが現実だ。

2006年10月22日 (日)

夕食はポトフ

夕食にポトフをつくった。
ポトフはフランス語で、pot-au-feuと書く。pot はポットつまり鍋、au は上、feu は火だから、火にかけた鍋というほどの意味だ。牛肉や鶏肉、ソーセージなどの肉類と、大きく荒く切ったニンジン、タマネギ、カブ、セロリなどの野菜類を、長時間かけてじっくり煮込んだもの、とものの本には記されている。正式には肉や野菜は食べやすい大きさに切って、マスタードを添えて別べつに皿に盛りつけ、スープも別に盛りつけていただく。
こういわれると何やら物々しい料理のように思われるが、もともとはそこらへんにある材料をてきとうにぶつぎりにして火にかけた鍋に放り込んで水で煮ただけの料理だ。レストランで高級そうなメニューのひとつとして掲げられているが、なんのことはない、日本のおでん、つまり関東煮きと同様の料理にすぎない。
わざわざ煮こんだ肉や野菜とスープを別々の皿に取り分けて食べるというのは、一見おしゃれなようにみえるけれど、これは、貧しい材料を煮込んだだけの料理でも、いく皿にも盛り分けて食べ方変えていただくと量がふえたように感じるし、豪華そうに思えるというだけの話で、いかにもケチなフランス人のやりそうなことだ。とにかく、ポトフというのは、もともとはそういうフランスの素朴な家庭料理のひとつなのだ。
話が横にそれるが、おでんというと最近はすべて、大根やこんにゃくやじゃがいもやすじ肉や練り物やちくわぶやがんもどきやたまごなどをだし汁で煮込んで芥子をつけて食べるものだ、と思われている。しかし、これは本来のおでんとはまったく違い、関西では関東煮きといって、おでんとは明確に区別する。今はかなり混同が進んでいるが、ちょっと前までは確実にそうだった。
おでんというのは田楽の別名というか愛称で、とうふやこんにゃくを茹でて串を差し、木の芽などで風味をつけた甘い味噌だれをかけたものだ。串は必ず2本差す。名前の由来は昔、田植えの前に豊作を祈る踊りの田楽の芸に田んぼの中に棒をたててその上で踊るものがあったそうで、串を刺した姿をそれにみたてて田楽というようになったという。
関東煮きもおなじく串に刺して食べるから同じようにおでんというようになったのだろう。むかし「おそ松くん」という漫画の中にチビ太というキャラクターがいつも串に刺したおでんを手に持っていた。関西育ちの私にはそれが関東煮きだと気がつくまでにずいぶんと時間がかかった。
それはさておき、日本のおでん、つまり関東煮きは、だし汁さえまともならそれこそ具材を適当に鍋に放り込んで煮るだけの料理だ。子供でもできる。ポトフも同じだ。こんな簡単な料理はない。味付けにはコンソメやブイヨンを放り込むだけですむし、だし汁の加減なんてことに気をつかうこともない。それに一度にたくさん根菜類をとることが出来るし、いいことずくめ。めんどくさがりで料理が苦手な私にはこれほどフレンドリーな料理もないというわけで、ときたまつくって野菜補給の機会にしている。
実際の作り方は、あちこち流布しているレシピを見ると、何やら大層なことが書いてあったりするけれど、そんなものはいっさい無視してよい。単純に肉と野菜をコンソメスープで煮るという基本に立ち戻って、豪快に料理すればいい。
私の場合は、皮をむいたジャガイモの四つ割り、人参のぶつぎり、タマネギの四つ割り、ソーセージまたはベーコンのかたまり、それから量に応じてコンソメかブイヨンを鍋に放り込み、水をひたひたにして火にかけるだけ。文字通りのpot-au-feuだ。これで、30分も煮込めばできあがり。深皿かどんぶりによそってコショウか芥子をそえてあつあつをフウフウ吹きながらいただく。
こんなに手軽で簡単な料理も無いと思う。そのうちこれにトマトピューレを加えたり、パスタを加えたりしたら、またすこし趣の違った料理ができるはずだ。そのうち試してみようと思っている。

2006年10月21日 (土)

10月19日の夢

昨日に続いて今朝も夢を見た記憶が残っているので記録することにする。けれども、今回はかなり支離滅裂なので乱暴な記録だ。
覚えているのは、どこか砂漠のような荒れ地に放り出されて、歩いているところからだ。
食料もなく、季節は冬に入りかけていて寒い。日が沈む前に速くどこか身を休めるところを探さないと、困ったことになる。近くにどこか止めてくれるようなところもあるだろうと淡い期待をもって、仲間と二人でわずかにそれとわかる道のような踏み痕をたどっていると、右手の岸壁に大きな扉のレリーフ彫刻の様なものが現れた。
何かの遺跡なのか、まだ人が利用しているものなのか即座には判明がつかない。うえのほうにのぼって全体をしらべてまわる。岩は安山岩のような荒い火成岩で、背丈の二倍ほどの高さの観音開きの扉が彫り込まれているように見える。扉の周囲にそって、四隅と上下にボルト止めのための台座のような穴のあいた出っ張りが、等間隔で配置されている。ロープをひっかけるものなのかどうかわからないが、どちらにしろ、とても人間の力ではあけることができない大きさと重さのようだ。
下に降りて、扉の前に立って腕組みをして考え込んでいると、観音開きの中央の合わせ目で、岩が薄くはがれてボタンの様なものが現れているのに気がついた。
触れるとほんのすこしだけボタンが沈み、まわりから細かい砂がこぼれ落ちる。しばらくして、音もなく扉が外側に開いた。
中に入ると右手に岩に彫り込まれた門衛の詰め所の様な場所があったが誰もいない。腰までの高さの岩壁の内側に椅子がおかれ、奥の壁際にはほこりが厚く積もった棚がかけられているのがみえる。部屋中に蜘蛛の巣が張って、細い糸に綿ぼこりや小さな虫が引っかかってぶら下がっているのが見えた。
そのまま荒い岩の通路を奥に進んで左に曲がるといくつかのしきりがあって、その中には材木などのがらくたが無造作に投げ込まれている。ほこりだらけのがらくた置き場だ。
ずっと進むと急に大きな部屋にでた。そこはもう安山岩の荒い岩壁ではなくて白っぽいクロスが張られた垂直のなめらかな壁の部屋だった。真ん中に大きな木のテーブルがあり、食堂の様。いちおう奇麗に片付けられているけれど、少し前まで人がたしかにいたようすがある。
右側の壁は腰の当たりの高さが棚がになっていて、絵皿や鉢などと一緒に額縁に入った絵が置かれている。ひとつは金色の額縁の中に暗い嵐の夜の海を航行する帆船の絵のようだ。
部屋の右奥に白い木製のドアが見える。その左側、今いるところから正面に当たる方向にはドアが無くて奥行きの深いキッチンになっているようだった。
キッチンの中に入ると、配膳台の上に食べ終わった皿がよごれたまま積み上げられていた。サラダとベーコンのスパゲッティーが、積み上げられた皿の縁からこぼれて垂れ下がっている。かなりの大人数が食事をした後のようだ。
シンクには大きな寸胴鍋がどんと置かれ、汚れた水がたまったままになっている。
どうやら洗い物を途中でほうりだしていってしまったようにも見える。
キッチンを出て食堂に戻り右のドアをあけて中へ入ると、急に普通の家の雰囲気になった。こぎれいなクロス張りの白っぽい壁の部屋がいくつもつながってひろがっている。部屋によって床の高さがちがえて変化がつけてある。ステップフロアというやつだ。けっこうモダンでおしゃれに見えるが、住みやすさはどうなのだろう。
どういうわけか自分の家族が住んでいるのがわかった。姪たちも一緒に住んでいるらしい。聞けば、娘は今日、最新のロマンスカーに乗って箱根へ行くという。一度乗ってみたいと思っていたし、車内のデザインにとても興味があったのであきらめきれず一緒に切符をとってもらった。
ホームからいそいそと乗り込んでロマンスカーの中を見て回る。ある駅で写真を撮ろうとホームに降りたら、何の前触れもなく、自分を残して車両は発車してしまった。
しかし、どういうわけか、8両編成のうち後ろの2両がのこされていて、これは後から先行車を追いかけ、途中の駅で先行車を追い越し、その先の駅で連結するというので一安心する。
乗り込んで、連結するという先の駅でおりたら、駅の構造がややこしく、一番右手のホームだとわかるまでに別のホームに降りて駅員に確かめなければならなかった。
家に帰ると、嫁さんがご近所の奥さん型とあつまって話をしていた。
それぞれ、自宅の外構や砂場などを作る話。お互いに見学し合ったりしている。
嫁さんと一緒に、あたらしく目の前の敷地にできる家の工事をみせてもらいにいく。
基礎部分をブロックでつくっているのでちょっとびっくりした。整地した上に軽量ブロックと同じ様な材質のブロックを起き、鉄骨を打ち込んで止めている。打ち込むときにブロックがひずんだりするのだがいっこうにお構いなしなのだ。こんなので耐震性は大丈夫なのだろうかと心配になる。
お隣に行くと、庭に砂場を作るのに庭を堀りかえしている。そこでも古い家の基礎のブロックがいっぱいでてきていて、工事の人が、これを使って新しい家を造ってれば良かったのにと言っていた。土の中に、ガス管かなにかの黒いパイプも見えた。
帰りがけに下の段の敷地の家をみると軒下に砂場ができていた。砂場がはやりらしい。ちいさなこどもがいるからかもしれない。
うちに帰ると、姪達がいろいろと計画を立てていて発掘調査や裏の建物の修理などをするらしい。でも、いそがしくてなかなかすすまないので、材料を用意してあげて、作業を始めるきっかけになるようにタイマーをかけてやったりした。
途中でトイレに行きたくなり、手近のトイレに駆け込むと、まるでアパートの風呂桶の様な大きくて深い便器で、中に入ってしゃがみ込むとそとがみえなくなるくらいだったのでびっくりした。足を置くところも無いし、色もうす青い。でも誰かが用をたしたあとがあって、すこしうんこがこびりついている。
おかしいと思って辺りを見回すと、扉を入ってすぐ左の引っ込んだところにちゃんと腰掛けタイプの便器があった。あわててそちらにいったが、こちらもやっぱり便座が汚れていたので、トイレットペーパーを使って拭き取る。
すると、上から汚れた水がどっと流れてまた汚く濡らしてしまう。どういうわけか便座のまんなかにフラップのようなものがあってこのうえにピンクっぽい汚れた水が流れるのだ。
どうも便座を拭くときの力の入れ方が問題のようだ。なんども奇麗にしようとがんばっている間に目が覚めた。

2006年10月20日 (金)

30分間歩いてみた

いい天気だったのでお昼休みの30分間、どれだけの距離を歩けるものか試してみることにした。
歩く道は毎朝の通勤路の農道。車でしか通ったことがない道だ。事務所から歩き出して、どこであろうと15分たったところで折り返すことにする。これなら、必ず時間内に帰ってこれる。
歩き出してすぐに新しい分譲地の住宅の前をとおりかかったら、半分たまった浴槽に太い蛇口から勢いよく水を注ぐような音が聞こえてきた。すごい勢いで水を入れるんだなあ、と感心しながらその住宅をすぎると、すぐ右手に用水路が現れた。なんだ、あれは用水路の堰を流れ落ちる水音だったのだ、と気づいて苦笑する。普段聞き慣れない音というのは自分の知っている範囲の音として聞いてしまうということだ。しかし、この季節にこれだけ大量に水が流れているというのは今年は雨が多かったせいだろうか。この水が作物の生育に使われずに流れていってしまうのはもったいないな、などと考えてしまうのはきっとよけいなことなのにちがいない。
音がしている堰を見下ろすと、垂直に流れ落ちる水流の下にペットボトルがぴょこぴょこと回るように浮かんだり沈んだりしているのが見えた。しばらくみていても、水流の下から抜け出て下流に流れていく様子はない。まるで堰から落ちる水の帯の下に捕まえられているような状態になっている。こどものおもちゃでストローを上に向けて口で吹き、その先に軽い小さな玉を置くと空気の流れのなかにつかまって、横にそれてこぼれ落ちるようなこともなく浮かび続けるというのがある。あれと同じ理屈だ。あれは空気が上にむかって流れている中に玉が捕まっているのだが、堰の場合は落ちる水流の中にペットボトルが捕まっているわけで、ちょうど運動の方向と重力の関係が逆になっているだけだ。
分譲地をでると水田地帯になる。といっても今は10月半ばなので稲刈りがすっかり終わって稲藁の薄黄色と土の黒い色の風景が広がる。今はコンバインで刈り取るので、田んぼの表面に短く刻まれた稲藁が敷き詰めたようにまき散らされている。場所によっては藁が細かく切られないで長いまま一定の方向にきれいに並べて置かれたように見えるところもある。あまりに整然と並んでいるので人間が刈ったものとは考えられない。コンバインの機種による処理の仕方の違いだろうか。
うす黄色の稲藁の間から稲の切り株が規則正しく顔をだしていて、これは記憶にある風景と重なってなんだか懐かしい感じがした。切り株からは緑のひこばえが20センチほどの高さに生えでているので、遠くの方の田んぼはまるで黄色い毛布の上に緑のレースの布をかけたようなふうに見える。
しかし、あぜ道や用水路のまわりはまだ緑の草が生い茂っていて、よく見るといろんな花が咲いている。普段は車で通りすぎるだけだからちっとも気づかなかったが、この季節は真夏よりも草花の種類が多いのかもしれない。
まず目に入ったのは、イヌタデにハナタデ。休耕田だろうか黄色いセイタカアワダチソウの群落も見える。これらは秋の草だからあたりまえだが、アザミやタンポポ、ヒメジョオン、アカツメクサなどが咲いているのにはちょっと首をかしげてしまった。ここのところ暖かかったから狂い咲きのようなものなのだろうか。それにしてはきれいに咲いている。ある住宅の花壇には春に咲くはずの桜草が一面に花をつけていたから、きっとそうなのだろう。
この間車の中から咲き誇っているのが見えた曼珠沙華はもうすっかり花を落として茎だけがのこっていた。この花は葉が出ずに地面から直接にょきにょきと茎を伸ばして先端に真っ赤な派手な花をつける。地下にはデンプンのいっぱい詰まった球根がある。球根は猛毒を持っているが水にさらせば食べられるので飢饉の際の救荒作物としても重宝されたという。そんなに栄養分をため込むにはそうとう立派な葉を広げないとだめだとおもうのだが、いったいいつ葉っぱを出して炭酸同化作用をするのだろうか。あとで調べてみなければ。
花ではないが、チカラシバとかオオバコ、カヤツリグサ、エノコログサなどもたくさん生えていていかにも秋の草という感じだ。名前を知らない草もたくさんあるけれど、みたとたんにこれだけ植物の名前がわかるということに自分で驚いてしまった。こんなふうに道ばたの草花を眺めることなんてここ何年もなかったことだし、植物の名前なんて、ほんとうに子供の頃に覚えただけで、すっかり忘れてしまっているとおもっていたのに、人間の記憶というのは不思議なものだ。
おもしろいのは、名前を覚えている植物はその特徴とかエピソードも一緒に記憶していることだ。こどものころにその植物の名前を教えてもらった時の記憶がセットとなってしまいこまれているのだろう。
たとえばチカラシバは根がしっかり張っていてどんなに引っ張ってもぬけない。茎はものすごく丈夫なのだが、それでもむりやりひっぱると途中で切れてしまう。オオバコは長く伸びた花茎をつかい、引っかけあいをして相撲を取る遊びに使う。それにこの草は人に踏まれるようなところによく生える。カヤツリグサは茎が3角形で、上と下から茎を裂くと、四角形にひろがって蚊帳の形のようになるからそういうのだ、とか。
そんなことを思い出しながら、秋の明るくて暖かい日差しを浴びながら歩くのはなかなか気持ちがよかった。そのまままだまだ歩き続けたかったけれど、農道がおわって広い市道にぶつかるところまで来た。時計を見るとまだ15分たつまで2,3分あるが、ここで折り返すことにする。車に乗っているとずいぶんと距離があるように思っていたのだが、歩くと意外なくらい近い。そんなものなのだろう。普段歩くということをしていないから、感覚がわからなくなっているのかもしれない。
あとで自動車のメーターでここまでの距離を確かめておこう。そうしたら、自分の歩く速度がわかる。一般的にはゆっくり目に歩いて一時間に4キロメートルというが、自分の感覚でその速度を確認できる機会はそうないから、ちょっと楽しみだ。

2006年10月19日 (木)

元同僚の葬儀

この4月に隣の県の事務所に転勤した同僚が自殺した。原因は不明。今日はその葬儀に出席した。
町の斎場での告別式は初めての経験だったが、斎場での葬儀というのはこんな風に行われるのかと半ばあきれ半ば感心して見ていた。現役の職員の葬儀ということで参列者は職場関係者が半数以上を占めていた。当然のことながら見知った顔も多く、そこここでお互いに挨拶を交わしている。こんな時でないと逢うことのない人も多いからだろう。
弔事が述べられる。最初は本社人事課長が読み上げる本社社長からの弔事だった。社長はこの8月に他企業から就任した人物で故人のことなど何一つ知らないはずだが、弔事はまるで旧知の部下を語るようによくつくられていた。これも演出なのだろう。次は所属の事務所長。彼もこの4月に着任したばかり。本来地元の人間ではないし旧知の間柄でもない。まだ身近に上司として接していただけ内容はましだというところだった。最後にやっと同じ学校を卒業し同じ会社に入った古くからの友人の弔事が述べられた。これはただ故人とのつきあいの歴史を順に話しているだけだったが、それだけに、かえってそれぞれのエピソードから故人の人柄がよくしのばれた。こういう場面では、人間はほんとうに上手に物事を描写し表現できるようになるものなのだなと素直に感動した。
しかしなぜ、弔事がこの順なのだ。本当に故人を悼むという考え方ならこれはまったくの逆ではないか。それにこの後も長々と本社関係や政治家、関連企業などからの弔電の紹介が続く。前に、冠婚葬祭っていったい誰のものなのだという文章を書いたことがあったが、まさにそれを色濃く感じる瞬間だった。
その後は斎主の入場から始まって読経、焼香、告別、最後に喪主からの挨拶、出棺、と順序よく流れるように儀式はすすみ、告別式は無事終了。棺と親族は火葬場へ向かった。
そのあとの斎場の風景は異様だった。会社関係の人間たちはすぐに立ち去ることなく、たむろし、お互いにまだしきれていなかった挨拶を交わしあう。それが延々と続く。だれもがお互いにお互いの顔色をうかがいながら立ち去るきっかけを探しているような、半分あきらめたような、そんな手持ちぶさたな居心地の悪い時間が過ぎ、あちこちから挨拶を受けていた会社幹部が立ち去ったとたんに、その集まりは解けて駐車場へ向かう列となった。
こんなところまで、会社社会のつきあいや義理、建前がまかり通っている。その徹底さに、あきれかえるという感情を通り越した、一種清々しいまでの感動を覚えた。これが日本の会社組織の人間関係なのだ。
故人を悼む気持ちは確かにあるだろう。けれど、それよりもこの機会にかこつけて社会的な関係や自分の地位の確保を確実にするための場、そして義理を果たす場、義理をつくる場としての意味合いの方がうんと大きくなっている。そのことに誰も言及しないしおそらくは気づいてもいない。
意地悪く考えるなら、本来なら家族に送られることで十分なはずの葬儀というセレモニーを社会やコミュニティーが食い物にしている。そんなものなのだろう。それが社会やコミュニティーが存続していくためのやり方なのだ。
自分が死ぬときも、やはりこうやって生き残った人間たちの役に立つ場を提供してやらなければならないのだろうか。それが社会人としての義務なのだろうか。葬儀などしてもらわなくてもいいというのは、自分勝手なわがままなのだろうか。
何の疑問もなく冠婚葬祭の儀式を行っている人たちは幸せだと思う。ひとたび、その意味に疑問を持ったとき、さまざまな想いが心をよぎる。
自分の納得のいく葬儀の仕方というのは、いったいどういうものなのか、死期が近づく前にしっかりと決めておきたいと思う。

2006年10月18日 (水)

今朝見た夢の話

今朝は寝坊した。携帯電話のアラームが鳴るまで全く目覚めなかった。いつもなら、アラームが鳴るうんと前に自然と目が覚めているというのに、今日はようやっと気づいてアラームを止めてもまたうとうと状態に戻り、アラーム音に設定しているにぎやかなカノンを2回も聞いて、やっと布団から抜け出した。
実は起きる直前になにやらおかしな夢を見ていて、その続きを見たかったから体が起きるのを拒否していたということらしい。
覚えているのは温泉の大浴場で温水プールと見まがうような大きな浴槽につかっている場面からだ。天井の高いものすごく大きな浴場で、あちこちに浴槽がいくつもあり、広い湯気がうっすらと立ちこめて壁や入浴客がかすんで見えている。
混浴らしいのだが、それがまったく普通の状況のようで、若い女性もぜんぜんあたりをきにすることなく湯船に立ち上がって歩き回ったり、男性にまじって洗い場で湯おけとタオルを使って体を洗ったりしている。なかに職場のアルバイトの女性もいて、にこっとわらって挨拶してくれた。湯気にかすんでいるのでそんなに鮮明にはみえないのだが、肌の色がとても白いのと体型やものごしでやっぱり男とは違うんだなあと、感心して眺めていたような気がする。
その方角には大きな窓があって、柔らかい光が大浴場の中に差し込んでいるので、まるで蒸気が立ちこめた熱帯雨林植物園の温室のような雰囲気だった。
自分は奥の方の大きな石造りの浴槽にいたのだが、肩までつかっているうちになんだかふわふわと体が浮き出すような気分になった。それで、どうせなら、インドネシアにいたころ、リゾートホテルのプールでよくやっていたように、あおむけになって手足を大の字に伸ばし、ながれにまかせてぷかぷかと浮かんでいることにした。
プールでのようにうまくいくかなとおもいながらおそるおそるからだをあおむけに寝かせて頭を湯の中につけると、ちょうど耳がかくれてわずかに鼻と口が湯の上に出て呼吸が出来ることがわかった。そのままふわふわと浮かんでお湯の流れに身を任せていたが、途中でプールのときのように水着をつけていないので下腹部が丸出しなのに気づいて、それで手ぬぐいを広げてかけたような気がする。でもお湯の中だからてぬぐいも浮かんでちゃんととどまっていなくて体と一緒に流されていくようだった。そのあたりから記憶がぼうっとして眠ってしまったようなのでよくわからなくなった。
夢の中でさらに意識がなくなるというのも変な話だ。つまり眠っている中で見ている夢の中で眠ってしまうわけだから二重に眠っていることになる。変な話だ。さらに、そのことをちゃんと意識の中で把握しているのだから、夢の構造というのはほんとうにどうなっているのかわけがわからない。
とにかく、夢の中で眠りから覚めたときは、まだお湯の中に浮いていた。しかし、はっと気がつくと、まわりのお湯の色は透明感のある黒褐色になっていて、そのなかに半分自分の体が沈み、あたりも薄暗くなっていた。
あたりを見回してみても人影もないし、浴槽は湯の流れが集まって終わる場所で、縁にごつごつした大きな岩が取り囲むように並んでいる。その岩の間に浮かんで、お湯につかった頭をそのままにして目をひらき、湯気にかすむ天井をしばらくぼんやりと見上げていた。
そこで携帯電話のアラームが鳴って目が覚めた。スヌーズボタンを押して、また眠りに入って続きを見ようとしたら、最初の明るい大浴場の場面に戻って、また最初から同じ夢の繰り返しが始まったように思う、それを何度か繰り返している間に、本当に目が覚めて、時計を見、寝過ごしたことに気がついて大あわてした。
夢ってほんとうにとりとめがない。見た夢の意味を探ったり夢占いをするなんて、きっとよっぽど暇人か偏執狂のやることに違いないと確信した。

2006年10月17日 (火)

夢の意義

最近やたらとよく夢を見るようになった。将来の希望とかいうほうの夢ではなくて、睡眠中の夢のことだ。
特に睡眠の質が悪いということは無いし、寝すぎているということも無いのに、以前に比べて目覚める直前に夢を見て、それをある程度記憶したまま意識が戻ることが多い。というより夢のなかで、ああ自分は夢を見ているなとはっきり意識している。だから、ある程度ストーリーを思うように導いたりできてしまうし、いちど目覚めてから、まだなんとなく眠いときはまた二度寝して夢の続きを見ることもできたりする。
いったいどうなっているのだろう。なにか脳の働きが変化してきているのだろうか。それともなにか自分の生活の中に夢を見るようになった必然性の様なものが出来してきたのだろうか。
夢を見る理由についてはまだよくわかっていないらしい。 夢の存在意義についてもさまざまな説があるようだが、いまのところ、無意味な情報を捨て去る際に知覚される現象という説、必要な情報を忘れないようにする活動の際に知覚される現象という説、の二つの説が有力だそうだ。
白状すると、最近見る夢は昔のこととかあまり考えたくないこと、あまり芳しくない体験したくないけれどおそらくはこんなもんだろうなと予想している様なことが多い。一言で言えば、夢見が悪い。目覚めてから覚えている場合はどうも気分が悪いタイプの夢が多い。
これが、必要な情報を忘れないようにする活動の際に知覚される現象、だとしたらたまったものではない。しかし冷静に検証すると、夢の内容がそれほど荒唐無稽のものではないことから、残念ながらそちらの可能性の方が高いのかもしれない。困ったことだ。もう少し様子を見て、もしあんまり続くようなら、ある程度夢のコントロールができることを利用して自分で夢のストーリーをねじ曲げてやろうかとも考えたけれど、これがまた、それほど思い通りにゆかないのも体験済みだ。
以前は夢を見ること自体も少なかったが、見た場合はどうも、非常にシュールなわけのわからないものが多かったように思う。だから目覚めてもほとんど記憶がなかったし、あったとしてもすぐに忘れて思い出すことさえできなかった。これは、無意味な情報を捨て去る際に近くされる現象、にあたるのだろう。しかし、いまはどうも様子が違う。とにかく、はっきりと記憶している場面が二つか三つは残っているのだ。これをどう解釈するか。
過去の経験、それもずいぶん前の経験に関連することが、不気味にデフォルメされ誇張されて夢の中に現れるのは、新しく入力される経験や知識情報が少なくなってきているので強引に古い情報を検索してそれをもとに脳が夢を見させているのだろうか、それとも無意識のうちに心の底にたまっていて解決しなければいけなかったのに逃げていた問題をもういちど意識の前面に押し出そうとしているのだろうか。
もし後者だとしても、その問題が解決するかどうかはわからないが、少なくとも折に触れて考える機会を与えてくれることになるには違いない。そうおもって、しばらくはこの夢見の悪さにつきあうことにしようと考えている。
あんまり見たくない夢も多いけれど、現実に向かわせてくれる夢というのもまた、意味があるのだろう。ともすれば空想の世界に逃避しがちな私のような人間の場合、これは現実世界で社会生活を営んでいく上でのバランスをとる自衛機構のひとつなのかもしれない。

2006年10月16日 (月)

三日坊主

何でもいいからと書き始めて三日目だが、昔から言われているように、このあたりが最長不倒距離という場合がおおいのかもしれないなあと、書きながら思っている。
どうせだからとネットで三日坊主のいわれを調べてみたら、もともとは、正月元旦に一大決心をして日記を付け始めても正月3日で途切れてしまうという様なことから言われ始めたらしいことがわかった。正月元旦からではないけれど、今の自分そのものではないか。こんなことではいかんと気を取り直してタイプを打ち続けることにする。
それにしても、こういう慣用句には3のつくものがおおい。三日坊主、三日天下、三種の神器、三寒四温、三年寝太郎、石の上にも三年、三度目の正直、二度あることは三度ある、三人よれば文殊の知恵、女三界に家なし。3K職場に三高主義、3分クッキングに三年目の浮気というのは映画の題名だったけ。三位一体ってのはキリスト教だったなあ。
関係の無いものもあるが、どうも日本人は3という数字が好きらしい。何かと言えば三大なんとかという言い方をする。日本三大名湯とか日本三大祭りとか。
なんでこんなに3という数字が好まれるかと考えてみたが、この3という数字、とにかく安定がいいということにつきるのではないか。
初めて知ったときに感動した記憶がある幾何学の初歩的知識に、独立した3点が平面を特定するというのがあるが、これは三脚がどんなところにも安定して立つ原理にもなっている。もちろん多角形のうちもっとも頂点の数が少ないのが三角形だ。
また、3は1、2に続く素数で、次の4でこの連続は途切れるし、和音は常に3つの音からなる。婚礼祝いも二つに割れないという縁起をかついで3万円が最低相場。とにかくなんでもかんでも3にしておけば何となく安定感というかすわりがいいのだ。
そのほかにも、日本独特の分割の美に七分三分というのがある。ベルサイユ宮殿に代表されるフランス式庭園の完全対象に対して、動的なバランスを重視した日本庭園の配置の美もこの感覚が基本となっている。
ちょっとおもいついただけでこれだけあるのだから、この3という数字にはよほどの魅力というか魔力があるのではないだろうか。
こんなことを考えていても、それこそ三度の飯の種になるわけでもなし、何の役にも立たないけれど、とりあえずこれでこの三日目を乗り切って、自己満足の作文練習ということにする。

2006年10月15日 (日)

インプットとアウトプット

最近どうも調子が悪い。
というのは、何もやる気が起こらないというか、起こそうとしても体や頭がついてこないのだ。それでついついだらだらとネットを見て回ったりゴロゴロしながら落語を聞いたりして何をするでも無く時間がすぎていく。
自分の中から湧き出てくる欲求というものが枯渇しているのだ。頭の中を覗き込んでも、がらんとした薄暗い部屋があるだけのようなイメージが広がるだけ。何かをするため、何かを自ら作り出すためには、それなりの材料と知識が必要だが、それがなくなってしまっているのだ。長い人生の中で少しずつ溜め込んでいたはずのそれは、いったいどこへ行ってしまったのかと焦りと不安を感じる。
考えてみれば数年も前から、仕事では文書を読み情報を処理していたとはいえ、プライベートなレベルで本を読んだり活動をしたり、そういうことがすっかりなくなっていた様な気がする。仕事での情報処理は決して純粋な意味でのインプットではない。それはその場での問題処理で、マニュアルに沿ったルーチン的な頭の使い方だ。だから、それは何らかの知識や情報を自分自身にほんとうにインプットしたことにはならなかったのだろう。インプットなしにはアウトプットは無い、というのは自明のことだ。
世の中には次々と創造的な仕事をしている方がいくらもいる。いつ寝ているのか、いつ食事をしているのか、と思われるくらいのエネルギーとスピードでそのアウトプットの活動を行っている。そういう人々はいつ知識や情報をインプットしているのだろうと、不思議に思う。
しかし、仕事でのルーチンワークでもやり方次第、作業をするときのちょっとした疑問などが、おもわぬ新たな情報や思いつきを惹起してくれることがある。この人たちは、忙しいアウトプット活動の生活の中でも、つねに心を柔軟にしてインプットのための回路を開き、触手をのばし、あらゆる機会を捉えて自分の心の中の倉庫に知識と情報とアイデアの断片を着実に溜め込んでいっているのだろう。
けれどもそれには、心を活性化するエネルギーがいる。そのエネルギーは心に蓄えられた知識と情報とアイデアの断片が相互に関連し合いながら発酵し、好奇心というインプットを求める力となって初めてうまれでてくるものだ。
インプットとアウトプットのサイクルをどちらにまわせるかのバランスはほんとうに微妙なものなのだろう。それがどちらに傾くかで、ただただ無為に時間を過ごしつづけることにもなり、なにも変わりのない普段の生活から好奇心と想像力の感覚を持ってどん欲に知識情報を吸収し増幅して創造的なアウトプットを生み出し続けることにもなる。
がらんどうの心の部屋の状態を嘆いていても物事は好転しない。使える材料が無いのなら、強引にでも知識と情報をインプットするしか無い。そうすれば、遠い昔に蓄積して、いまは闇の中に隠れて見えなくなってしまっている知識や経験の断片に照明が当たり、確かなかたちを持ってとらえられるようになるはずだと思う。そしてそれが新しくインプットされた情報と相互作用、相乗作用を起こして新たなエネルギーを生んでくれるにちがいない。
すべてはきっかけだ。アウトプットができない、創造的なことができないというデッドロックの状態にあるのなら、いったん潔く観念してなんでもいい、不安や焦燥、罪悪感、劣等感などというマイナスの意識からはなれ、純粋に楽しめる受け身に徹したインプットを試してみるのが早道かもしれない。
そうすればきっと、この状態から抜け出せるはずだ。まずはそれを信じて行動を起こそうと思う。しかし、これまで慣れ親しんだものを繰り返しインプットするだけでは蓄積は増えていくことは無い。常に新しいものに触れなければ。しかもエネルギーをできるだけ使わないようにして。それにはまず、よけいなことは考えないでできるだけ接しやすそうな、まだふれたことの無い娯楽作品の読書、鑑賞から始めること。そこから初めていくことにしたいと考えている。
それが、錆び付いて動かなくなったインプットとアウトプットのサイクルをまわす歯車に潤滑油を差し、わずかでもいいからきっかけとなる最初の回転を与えてくれることを期待して。

2006年10月14日 (土)

幼稚園の運動会は誰のため

アパートのすぐ裏手にキリスト教会系の幼稚園がある。
今日はその幼稚園の運動会。朝からにぎやかに音楽や先生方のアナウンスが聞こえてくる。
ああ、自分にも自分の子供達にもこんな時代があったんだっけと思い出そうとするが、あんまり良く覚えていない。
それでも、小さな子供達のエネルギーと言うのは、こういうものだったのかとちょっと不思議な気持ちになりながら、たどたどしくも勢いのいい幼稚園児の声や演技や競技の様子を興味深く眺めていた。
園長先生の挨拶は、これまで8月9月とずっと練習してきた成果を、おとうさんおかあさん、おじいちゃんおばあちゃん、それから来賓のお客様達に見てもらう本番の日だということを強調していたけれど、そんなものなのだろうか?
それでは運動会は子供達のものではなくて、大人のためのもののようではないか?
しかしよく考えてみれば、世の中のたいていの催しごとというのは、純粋な意味でそれを行う本人のためのものではないことが多いように思う。
もう少し成長してからの、体育祭、文化祭など、学校関係の催し物もその傾向が強いが、これはまだ、学生たち自身の盛り上がりというか自主的なイベント作り、仲間意識の確認と醸成の様なものがある。
けれど、社会に組み込まれてからの冠婚葬祭関係はどうなのだろう。
コミュニティーの中でその地位を誇示すること、対面を保つことが最優先になっていないだろうか?
もちろん本来の意味でひとを祝ったり悼んだりする気持ちがあることは否定しないが、それと社会的な対面とどちらが主になっているのかそのあたりのバランスがどうにもわからない。
昔の村社会コミュニティーの中では、お互いの親密な関係を維持することがとても大事なことだったろうし、これを維持するための手段として様々な機会や仕組みが用意され、それが実際に機能していたのだろう。
けれど、時代は変化してきている。今の時代、どれだけのひとがそのような村社会的な密接な関係を望んでいるのか、必要としているのか。たしかにトラブルがあった場合の助け合いなど、日頃からの地域のコミュニティーの質が問われることもあるだろうが、それは必ずしもお互いのプライバシーまで踏み込む様な親密さやコミュニティーの中での対面の維持などの気遣いを伴わなくても維持できるはずだ。
ドライに必要なことを取り決めてそれをお互いに尊重すればいいだけの話だろう。
しかし、今の社会、そんなドライなひとばかりではない。昔の村社会的親密さの中で生きてきた人たちがまだ半分以上存在している。
その人たちによって、まだしばらくの間は、対面を維持したり、コミュニティーの構成員を満足させて後々の便宜や好意を期待することを隠れた目的とした、セレモニーやイベントが演出されていくことだろうと思う。
幼稚園の運動会は今も窓の外でにぎやかに続いている。
参加している幼稚園児達はそんな大人達の社会関係のメカニズムや思惑には全く関係なく、ただ与えられた場で彼らなりに精一杯楽しんでいるはずだ。それは、それでいいことなのに違いない。
幼稚園児とその親達一人一人が親子の大事な思い出をつくる機会として、この運動会と言うイベントに参加しているのなら何も言うことは無い。
そう考えると、人間というものは、ほんとうにうまく、ずるがしこく、社会的な対面や都合と己の利益のバランスをとりながら社会生活を営んでいるのだなと、気づかされた様な気がする。

2006年10月13日 (金)

「一日一作文章練習」開始のいいわけ

最近、どうも自分は文章を書くのが遅いのではないかということに気づきました。ちょっと書いては、これでいいのかと言葉を変えてみたり語順をなおしてみたり。もともと話すのが得意じゃないので、その影響がそのままでているのではないかと思います。
これは仕事での文書作成速度にも明らかに影響しているようです。このままではいけません。この年齢になってという気持ちもありますが、何かをやり始めるのに遅いなんてことは絶対にないはずです。
そんなわけで、毎日、あまり迷わずに一気にある程度以上の文章をタイプするという方法で速く文章を書く練習をしてみることにしました。いわゆる粗製濫造ですね。
書く時間は原則30分から最長1時間。ミスタイプや誤変換はある程度許す。とにかく毎日一本、なんでもいいから質より量と割り切って書き上げる。途中で尻切れトンボになってもかまわずそこでやめる。(もちろん後になって気が向いたら読み直したり加筆訂正をしたくなるだろうけれど、どこまでやるかが問題。)
こんなルールだと書き上がった作文は文章以前の問題になるかもしれませんし、効果があがるかどうかもわかりませんが、しばらく続けてみたいと思います。
書いた作文は「一日一作文章練習」というブログを立ち上げ、そこにアップしていくことにします。

トップページ | 2006年11月 »